プロフィール

浅田 彰(あさだ・あきら)
1957年、神戸市生まれ。
京都造形芸術大学大学院学術研究センター所長。
同大で芸術哲学を講ずる一方、政治、経済、社会、また文学、映画、演劇、舞踊、音楽、美術、建築など、芸術諸分野においても多角的・多面的な批評活動を展開する。
著書に『構造と力』(勁草書房)、『逃走論』『ヘルメスの音楽』(以上、筑摩書房)、『映画の世紀末』(新潮社)、対談集に『「歴史の終わり」を超えて』(中公文庫)、『20世紀文化の臨界』(青土社)などがある。

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クリストファー・ノーランの《インターステラー》

2014年11月22日

驚くべきことだ。スタンリー・キューブリックの傑作《2001年宇宙の旅》(1968年)が、46年後のいま、ついにアップデート版によって上書きされようとしている。クリストファー・ノーランの《インターステラー》である(以下の記述はわずかながらいわゆる「ネタバレ」を含むので、気になる人は映画を見てから読んだほうがいいかもしれない)。

《2001年》では、月面で発見されたモノリスの発する信号に導かれて、巨大な精子を思わせる宇宙船で木星近傍の「スター・ゲート」に到達したボーマン飛行士が、その彼方で時空を横断する旅を体験したあげく、人類を超えた「スター・チャイルド」として地球近傍に回帰する(音楽としてリヒャルト・シュトラウスの《ツァラトゥストラはかく語りき》が使われていることからして、これはニーチェの「超人」のSF版とも言えよう)のだが、《インターステラー》では、「スター・ゲート」は相対論的なワームホール(時空の虫食い穴)とされ、荒廃した地球からの移住を迫られた人類の行く先を探るため、クーパー飛行士がそこをくぐって星間(インターステラー)旅行——具体的には銀河間旅行——を敢行、冒険に次ぐ冒険のあげく、ブラックホールの中で4次元時空を超えた次元に到達し、そこから土星近傍に回帰するのだ。《2001年》と違うところは、クーパー飛行士が、銀河の間の距離を超え、相対論的効果による時間のずれを超えて、地球に残してきた娘に情報を送ろうとする(親とは子どもを見守るゴーストだという言葉を現実化するようにして)——そして再会の約束を果たすために帰還しようとするという「人間的な、あまりに人間的な」物語だろう。

(C) 2014 Warner Bros. Entertainment, Inc. and Paramount Pictures. All Rights Reserved.



したがって、ノーランはキューブリックのクールでスタイリッシュな美学にとどまることができない。ほとんど感情を表さないボーマン飛行士と違って、クーパー飛行士は、家族——とりわけ娘への愛にもかかわらず、いやそれゆえにこそ、故郷を離れ、地平線を超えてなお前進しようとする、西部劇の孤独なレインジャーの21世紀版であり、異様な熱に突き動かされるかのような彼の足取りを追って、映画もつねに熱くエネルギッシュに進行してゆく。《2001年》が人間には理解不能なものをそのまま示して謎のまま終わるのに対し、《インターステラー》は物理学をできるだけわかりやすくイラストレートしようとし(といっても相対論が主で、量子通信はテーマとして出てくるもののメタフォリカルにしか扱われない[注])、ハリウッド大衆娯楽映画としては十分な水準に達しているものの、結局、最終的なテーマとして強調されるのは、重力とともに愛が時空を超えるという、およそ非科学的な、しかしこれ以上ないほどわかりやすいものだ(シモーヌ・ヴェイユをもじって言えば、この映画のタイトルは《重力と愛》でもよかった——アルフォンソ・キュアロン監督の《Gravity》[2013年:重力をテーマとする《Gravity》という映画のタイトルをわざわざ《ゼロ・グラビティ》とした日本の配給会社の知性とセンスには唖然とするばかりだ]がなかったならばの話だが)。

別の側面に注目するなら、《2001年》には、幼年期の記憶を、したがってまた死の恐怖をもつ人工知能 HAL(IBMを1字ずつ前にずらせた名前)が登場する(HALが自らの死を恐れるあまり冬眠中の飛行士たちを殺すシーンは映画史上もっともクールな、そしてボーマン飛行士が HAL を「殺す」シーンはもっとも哀切な、殺しのシーンであると言ってよい)が、《インターステラー》に出てくるロボットはそれどころか人間も顔負けのブラック・ユーモアの持ち主で、クーパー飛行士という「宇宙のカウボーイ」(クリント・イーストウッドの映画のタイトルを借りれば)の良き相棒となる。

いちばん問題なのは音楽だろう。キューブリックが《2001年》で、リヒャルト・シュトラウスのほか、ヨハン・シュトラウスの《美しく青きドナウ》、ハチャトゥリアンの《ガイーヌ》、はたまたリゲティの《アトモスフェール》、《ルクス・エテルナ》、《レクイエム》といった多種多様な音楽を自由自在に使い分ける、その選曲の妙は見事と言うほかない。他方、ノーランの近作の常連として《インターステラー》でも音楽を担当したハンス・ジマーは、ポストミニマリズム右派と言うべき流れの影響も受けて、和音を連打しながら重戦車のように前進する音楽で知られ、とくに今回は《ツァラトゥストラ》を意識してかオルガンを多用しているのでいっそう重苦しい雰囲気が強い(ただし、音響は決して悪くないことも認めておくべきだろう。定石とはいえ、ロケット・エンジンの轟音と宇宙空間の静寂の対比は見事だし、土星近傍でクーパー飛行士がイヤホンで聴いている地球の環境音[森の雨の音]がほんのしばらく流れるところなどは実に素晴らしい)。

このように、どこまでもクールでスタイリッシュなキューブリックの《2001年》に対し、ノーランの《インターステラー》はいささか暑苦しい印象を与える。これは良かれ悪しかれノーランの持ち味と言うべきだろう。たとえば、他人の夢(無意識)の中に入り込むというギミックによって夢の中の夢の中の夢…という入れ子構造を作り出した《インセプション》(2010年)は驚くべき力作だったが、作り込みすぎていささか重苦しくなってしまった憾みがある。夢から醒めるためのシグナルとしてエディット・ピアフの《水に流して》(繰り返される歌詞「Non, rien de rien」をあえて直訳すれば「否、無の無」だ)を使うところなどは洒落ているものの、ジマーの音楽が重苦しいことが全体の雰囲気を重苦しくしている一因だろう。しかし、相対論や量子論の効果による時空を超えた複数の世界の接触を描いた《インターステラー》は、《インセプション》と重なるテーマを扱いながら構造がややシンプルになり、同時に推進力を増した。家族のいる農場を離れたクーパー飛行士がロケットで離陸するまでの強烈な加速、そこからワームホールを通って別の銀河に到達し、その名も「レインジャー」という降下艇をロデオ・カウボーイのように乗りこなして水の惑星や氷の惑星を探訪したあげく、爆発でダメージを負い破片を撒き散らしながら回転する母船と「不可能だが必要」なドッキングを果たしたあと、ついにブラックホールに落下してゆくまでの、息もつかせぬローラーコースター・ムーヴィーとしてのパワーは、圧倒的と言うほかない。

(C) 2014 Warner Bros. Entertainment, Inc. and Paramount Pictures. All Rights Reserved.


 
その熱に浮かされたような前進運動をただのローラーコースター・ムーヴィーに終わらせないために大きく貢献しているのが、クーパー飛行士を演ずるマシュー・マコノヒーの熱演だろう。ハリウッドの大衆娯楽路線に背を向けてインディペンデント映画で注目すべきキャリアを積み上げてきた彼は、《ダラス・バイヤーズクラブ》(2013年)で、AIDSで余命わずかと宣告されながら、患者を薬の治験のモルモットとして使う公的医療体制(さらに大きく言えばAIDSで死んだミシェル・フーコーが「生権力」と呼んだもの)を拒み、世界中から非公認の薬をかき集め(最初に岡山の[株]林原でインターフェロンを買い付けるところが面白い)、かつては蛇蝎のように蔑んでいたゲイたちとも協力してバイヤーズクラブ(一種の頒布会)を組織して、医師の宣告よりはるかに長く生き延びたテキサスのロデオ・カウボーイ(ロン・ウッドルーフという実在の人物がモデル)を見事に演じ切って、アカデミー賞主演男優賞を獲得した。クーパー飛行士を演ずるのに、これ以上の適任者はいないだろう。現に、彼の演技はこの映画を感動的な人間ドラマとするのに大きく貢献することになった。それだけではない。クーパー飛行士の子どもたちから、老人たち(ノーランの『バットマン』シリーズに続いて姿を見せるマイケル・ケインもさることながら、エレン・バースティン[冒頭で地球を襲ったカタストロフィの証言者としてヴィデオに出ているのが実は彼女だ]がTVドラマ《ポリティカル・アニマルズ》[2012年]の毒舌家とは対照的な少女の心をもつ老女を演じて感動的だ)にいたるまで、キャスティングも見事と言うべきだろう。

実のところ、客観的にみて《インターステラー》が《2001年》に匹敵する傑作として映画史に残るかどうかはまだわからないし、主観的に言えば私はノーランのように熱っぽくぐいぐい力で押していく映画よりキューブリックのクールでスタイリッシュな映画のほうが好きだ。それでも、ノーランの《インターステラー》が驚くべき力作であり、ハリウッドのいまだ端倪すべからざる力を示すものであることは、認めておかなければならない。翻ってみるに、キューブリックは言うに及ばず、ノーランのような映画を生み出す力を、マンガやアニメのアダプテーションでお茶を濁すばかりの日本の映画界に求めることができるだろうか。

 
注:《2001年》でキューブリックは物理学者たちの解説も撮影した(しかし結局のところ映画には使わなかった)が、《インターステラー》では珍しく物理学者のキップ・ソーンが最初からエクゼクティヴ・プロデューサーとして制作に加わった。Kip Thorne,”The Science of Interstellar”(Norton, 2014) には映画の背景にある物理学理論が手際よくまとめられている。
『WIRED』はノーランをゲスト・エディターとする特集号(『WIRED』-22.12)を刊行、ソーンも参加しているが、その中の記事によると、クーパー飛行士のゴーストが娘と交信するシーンで重要な位置を占める本棚には、エリオットの詩集(とくに『四つの四重奏』)、ボルヘスの『迷宮』、そしてもちろんピンチョンの『重力の虹』など、ノーランがとくに選んだ書物が並んでいるらしい。今度、注意して見直してみなければ。

 
付記;
東浩紀がかつて《インセプション》を高く評価していたので、SF作家でもあり、娘を愛する父でもある彼なら《インターステラー》を絶賛するだろうと思っていたところ、脱稿後、小崎哲哉編集長から東浩紀のインタヴュー記事を教示された。
http://www.cinra.net/interview/201411-interstellar
やはり。



《インターステラー》
オフィシャルサイト:www.interstellar-movie.jp
配給:ワーナー・ブラザース映画