プロフィール

浅田 彰(あさだ・あきら)
1957年、神戸市生まれ。
京都造形芸術大学大学院学術研究センター所長。
同大で芸術哲学を講ずる一方、政治、経済、社会、また文学、映画、演劇、舞踊、音楽、美術、建築など、芸術諸分野においても多角的・多面的な批評活動を展開する。
著書に『構造と力』(勁草書房)、『逃走論』『ヘルメスの音楽』(以上、筑摩書房)、『映画の世紀末』(新潮社)、対談集に『「歴史の終わり」を超えて』(中公文庫)、『20世紀文化の臨界』(青土社)などがある。

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高橋由一に始まる

2012年10月20日

言うまでもないことだが、近代絵画は印象派に始まるのではない。暴力的に単純化して言うなら、クールベ(物質/労働)とマネ(表面/売春[商品化])によって始まるのだ。その意味では、日本の近代絵画は、印象派ではないにせよそれと同時代のアカデミックな絵画(ラファエル・コランら)を学んだ留学生(黒田精輝[1866-1924]らの「外光派」)に始まるのではない。それに比べて古色蒼然たるものとみなされるにいたった高橋由一(1828-1894)をあえて日本のクールベとみなすことが可能だとすれば、高橋由一こそは紛れもなく日本の近代絵画の創始者である——そして、そのレアリスムは「外光派」のあと岸田劉生(1891-1929)によって初めて回復されることになる——と言えるのではないか。

むろん、一方でこれは何ら新しい主張ではなく、他方でかなり強引な見立てでもあることは認めておかねばならない。クールベの前にドーミエがいたように、高橋由一が油絵を学んだワーグマンは「ジャパン・パンチ」の風刺画家であり、彼らのレアリスムは社会的なものでもある。だが、クールベが1848年の革命から1871年のパリ・コミューン、そして政治亡命にいたるまで生涯を通して反体制の闘士であり、たとえばナポレオンIII世のパリ万国博覧会(1855)に対抗してたった一人で展覧会を開いた(そこで発表された代表作「画家のアトリエ」の副題に読まれる「リアルなアレゴリー」という撞着語法を彼の社会的レアリスムの宣言と読んでいいだろう)のに対し、体制が確立しない幕末から明治を生きた高橋由一は、たとえば金刀比羅宮をパトロンとして琴平山博覧会で作品を発表し、果ては、東北各県で自由民権運動を弾圧しつつ土木工事を強行した三島通庸(プチ・ナポレオンIII?)のためにその土木工事を絵画で記録している。しかし、日仏の歴史段階の差からくるそうした違いにもかかわらず、美しいものでも崇高なものでもない、たんなる「物」を(またそれと格闘する労働を)物質的に描こうとした点において、またテーマの選択(クールベにおける水源の洞窟[そして女性器]と高橋におけるトンネル、クールベの鱒と高橋の鮭、etc.)において、両者の間にはたしかに不思議な共通性が認められるのだ。

そういう意味で、私としては、「花魁」図などに西洋と日本の衝突から生まれた独特な表現を見て評価する高階秀爾(『日本近代美術史論』講談社学術文庫)の立場を踏まえた上で、それよりもむしろ、「鮭」図——さらには「豆腐」図(豆腐と焼き豆腐と油揚を並べたこの絵をレヴィ=ストロースが見たら面白がっただろう)や「左官」図(古い壁の落書きまで克明に描いた上で、左官が壁土か漆喰[画家にとっての絵の具に相当する]でそれを塗りこめる準備をしているさまを描いたこの絵は、「描くことのリアルなアレゴリー」として読むことさえできる)に、また高階秀爾が本格的西洋化による独自性の喪失を見る晩年の風景画や土木工事記録画にも、真正のモダニズムを見る立場を選びたい。

普通、その高橋由一を見ようと思ったら、まずは金刀比羅宮を訪ねるべきだろう。そこには博覧会のとき由一の寄付した作品のうち27点が残っており、多彩な「美」の世界を図鑑のように描き出す伊藤若冲の「花丸図」(ただしたんに美しいだけではなく葉の傷みなども克明に描写されていることは言い添えておくべきだろう)や「崇高」なスケールとエネルギーに満ちた円山応挙の「瀑布図」といった18世紀の作品と比較してみれば、そのレアリスムがいっそう鮮烈に感じられる(さらに現代では田窪恭治がアート・ディレクターとして自らさまざまな作品を制作しているが、障壁画などは成功しているとは言い難く、むしろその関連で鈴木了二がいわば船が山の斜面にめり込んだかのようなシャープな建築をつくっていることに注目しておきたい)。

とはいえ、京都国立近代美術館で開催されている高橋由一展(9月7日-10月21日)は、この画家の全貌をとらえなおす格好の機会であり、上で触れたようなさまざまな傑作のほか、とくに東北の土木工事の記録画がスケッチの段階から体系的に展示されているのはきわめて興味深い。そう、もし高橋由一が「体制側のクールベ」とでも言うべき側面をもっていたにせよ、彼は土木工事の成果を——とくに近代の技術が自然を文字通り切り開いていくさまをひたすらリアルに(岸田劉生の「道路と土手と塀(切通乃写生)」[1915]を予感させるほどリアルに)描くのであって、三島県政の成果を讃美するのではない。そこから振り返ってみると、西南戦争を描いた「官軍が火を人吉に放つ図」も、官軍の勝利を讃美するのではなく、賊軍(とされた西郷隆盛ら)の敗北をロマンティックに謳うのでもない、いわば戦争を蟻の行列でも観察するように描いたものと見えてくるのではないか。確かにそれは歴史画なのだが、むしろ、人間たちの営みを、それを超越する不動の自然の中に冷徹に位置づける、いわば非人間的・唯物論的な歴史画なのである。

京都では、常設展示の一環として、同時期に油絵の表現を開拓していた田村宗立(1846-1918)を「京都の高橋由一」と見立てた小特集が組まれており、歴史的観点からみて興味深いと同時に、比較すれば高橋由一がいかに突出していたかわかるという皮肉な意味でも面白い企画と言える。さらに、美術館から神宮道を南に下がったところにある星野画廊では、伊藤快彦(1868-1936:1875年の京都博覧会に出品された高橋由一の「鮭」に衝撃を受け、長じて田村宗立に絵を習い始める)の遺作展が開かれており(9月4日-10月6日)、あわせて櫻井忠剛(1861-1934:尼崎藩主の家に生まれ初代尼崎市長を務めたが、川村清雄に学んだ本格的な画家でもあった)の作品も見ることができる。とくに両者の描いた横長の板絵は、高橋由一の板絵ほどのレアリスムは感じさせないものの、能面などとともに謡本を描きこんでいるところは由一の「読本と草紙」図を連想させて面白い。

他方、この高橋由一展と踵を接するように、江戸東京博物館で「維新の洋画家 川村清雄」展(10月8日-12月2日)、目黒区美術館で「もうひとつの川村清雄」展(10月20日-12月16日)が始まった。とくに前者は、これまであまり注目されてこなかったこの画家の全貌を明らかにしようとする歴史的な展覧会と言えるだろう。

黒田清輝らによって周縁に追いやられたところは同じでも、川村清雄(1852-1934)は高橋由一とは対極的な存在である。高橋由一が横浜でワーグマンに油絵を学んだのに対し、江戸城御庭番の流れを汲む旗本の家に生まれ、駿河府中藩に転封となった徳川家から1871年にアメリカへ派遣された川村清雄は、そこで絵画に開眼、フランスからさらにイタリア(ヴェネツィア)で長く修行して、本格的な洋画家となった(帰国したのは1881年だ)。1878年パリ万国博覧会で日本美術に触れてその美に開眼したというくらいだから、当時としては異例の存在と言えよう。

硯と筆をインク壺とペンに、和紙を洋書に、瓢箪を水晶玉に対比させた精緻な鉛筆画「静物写生」(1875:カタログ・ナンバー47)は、その研鑽ぶりをよく示している。帰国後描いた徳川歴代将軍の肖像(1884:95-99)は、背景に金箔を用いながら、油絵ならではのリアリスティックな表現を目指したもので、和洋折衷には違いないものの、有職故実に従い精密に表現された装束をはじめ、絵画として完成度が高く、おかしなところがほとんどない。名高い「福沢諭吉肖像」(1900頃:149)も、未完ながら、諭吉像の決定版と言うに足る出来栄えだ。他方、「海底に遺る日清勇士の髑髏」(1899以前:106)となると、両国兵士の髑髏が暗い海底でひとつに溶け合ったかのような表現は、ほとんど象徴主義的と言ってよく、なかなか印象的である(黒漆塗りの板に描かれているが、これは川村清雄がよく用いた手法だ。画中の色紙には、画家の最大の後援者だった勝海舟が「海行かば水漬く屍…」の古歌を書いている)。フランス人からの委嘱で描かれ、今回はじめて日本に戻って来た「建国」(1929:203)は、「天岩戸」神話を「常夜の長鳴鶏」——高階絵里加が指摘した(京都造形芸術大学でも講演してもらった)ように、フランスではそれを「ガリアの雄鶏」(フランス国家のシンボルのひとつ)と受け取った向きも多く、もともとそうした両義性を意識して制作されたとも考えられる——に焦点を絞って象徴的に描いているが、傑作と言えるかどうかはともかく、和洋折衷を見事に成し遂げた晩年の記念碑と言えるだろう。川村清雄は、こうした本格的な作品の傍ら、日本人の生活に溶け込む小ぶりな作品もたくさん描いている。黒漆板に描いた「鰈(かれい)図」(1930:191)などは高橋由一を思わせるが、余白を大きくとる洒落た構図や、贈答品を思わせる木箱に全体を収める趣向などは、高橋由一とまったく異質なところだろう。さらには、鍋蓋に描いた作品(184)もあるし、目黒区美術館の展覧会を見ると、黒綸子帯にそのまま油彩で描いたものさえある。それらの中には佳品もある半面、和洋の齟齬ゆえにあまりうまくいっていない作品も多い。しかし、いずれにしても川村清雄の絵には高橋由一の感じさせる異様なまでのリアリティが感じられない、むしろそこが問題だろう。

欧米で本格的な画家になった川村清雄が最終的に比較文化的な考察の範囲を超えなかった(むろん、これは高階秀爾・絵里加父子に代表される比較文化的研究へのあてこすりでは決してない)のに対し、中国への渡航体験を除けばずっと日本で自前の油絵を描き続けた高橋由一は知らない間に普遍的な次元に突き抜けていた——そう言ったとすれば言いすぎだろうか。ジャン=リュック・ゴダールは「JLG/自画像」の中で「文化は規則によって成り立つが、芸術は例外である」と規定した、ほとんどそれに近い意味で、高橋由一は例外であり、したがって(文化的一般性を超えた)普遍性を持つのだ——そう言えばあまりに非歴史的な放言ということになるだろうか。

いずれにせよ、高橋由一展はたんなる歴史的興味を超えて見に行く価値があると言えるのに対し、川村清雄展はまずは歴史に興味のある人に薦めるべきものだろう。とはいえ、今年が、高橋由一に始まる日本の油絵の原点を多面的に検証する上で重要な催しが続いた年であるのは間違いない。それは、歴史的事実の検証を超えて、絵画の、さらには芸術の原点を考え直す貴重な機会となるだろう。