ミヒャエル・ハネケ監督
「愛、アムール」(落ち着きの悪い邦題だ)が公開された(京都では京都シネマで上映中)。
私は人間関係の矛盾を痛点にむけてギリギリ突き詰めていくハネケの手法を必ずしも高く評価するものではない。しかし、老いと病いにもかかわらず二人の世界を守り抜こうとする音楽教師夫妻の姿を淡々と描くこの作品は、シンプルである分、ハネケのあざとさが目立たず、秀作と言っていいように思う。
テーマに触れないわけにはいかないので、一言だけ。原則的に人間には自殺の権利があり、とくに医療の高度化と社会の老齢化の中で安楽死(「尊厳死」という言葉はきれいごとのように響くのであえて避ける)の一般化が急がれる——これが私の昔からの意見(個人的な意見であっていかなる組織を代表するものでもない)であり、2007年に脳梗塞で倒れた老母を昨年夏に見送るまで介護した経験を経てもその意見はまったく変わらない。先ごろ、麻生太郎財務・金融担当相が「私は少なくともそういう必要はないと遺書を書いているが、いいかげん死にたいと思っても『生きられますから』なんて生かされたんじゃかなわない。しかも政府の金で(高額医療を)やってもらっていると思うと寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらわないと」と発言、批判を浴びて撤回したが、たしかに医療費や介護費の財布の紐を握る財政の最高責任者の発言としては不用意かもしれないとして、私自身、聞かれたらまったく同じことを言うだろう。ただ、法的悪用や社会的悪影響を防ぐためには細心の注意を払う必要がある。苦痛があろうが、他人に厄介をかけようが、生命のある限り生きたいと望む人の意思は絶対に尊重されるべきで、そんなことならさっさと死にたいと思う人がなかなか死なせてもらえないのは困る半面、さっさと死ぬ人が増えてきたときにどうしても生き続けたい人に暗黙の社会的圧力がかかる(他人に迷惑をかけることが強く非難される日本のような社会ではとくに)ことは厳に避けねばならない。生きたい人は自由に生き、死にたい人は自由に死ぬ、要はこの原則を貫くことなのだが、それを実現する法的・社会的システムを準備するのはそう簡単なことではないだろう。
ともあれ、老いと病い、そして死の問題は、高齢化社会において誰もが考えることなので、ハネケの作品はそれを端的に描いた映画という以上でも以下でもない。この映画で何より素晴らしいのは、老音楽教師夫妻を演ずるジャン=ルイ・トランティニャン(1930年生)とエマニュエル・リヴァ(1927年生)の演技を超えた演技だ。そう、彼らは老いた自分たちの身体を何ら隠すことなく観客に差し出してみせるのである。トランティニャンといえば、たとえばベルナルド・ベルトルッチ監督の「暗殺の森」(1970年)が思い起こされる。そして、エマニュエル・リヴァといえば、とくに日本人は、アラン・レネ監督の「Hiroshima mon amour(二十四時間の情事)」(1959年)を想起しないわけにはいかない。被爆から立ち直りかけている戦後の広島(1955年に丹下健三の設計で建てられたばかりの広島平和会館原爆記念陳列館[現・広島平和記念資料館]もフィーチャーされる)を訪れた若いフランス人女性(エマニュエル・リヴァ)と、ベッドを共にする関係になった日本人建築家(岡田英次)が言い合う
「私はヒロシマですべてを見た、すべてを」
「君は広島で何も見ていない、何も」
という台詞(マルグリット・デュラスによる)は、その決定的なすれ違いのうちに戦争のトラウマの表象をめぐる諸問題を凝縮したパラダイムと言ってよい(*注)。ちなみに、1958年にこの映画の撮影のため来日したリヴァが広島の街並みや人々の姿を写真に撮っていた、それが2008年になって港千尋によって確認され、「ヒロシマ モナムール」展と題して広島市現代美術館で展示されたときには、リヴァ本人も50年ぶりに来日した。
『HIROSHIMA 1958』と題する写真集も出版されている。そのトランティニャンとリヴァが、いまは老いた全身を何のためらいもなくキャメラにさらす——リヴァにいたっては裸身さえ。その姿の背後に、われわれは二人がそれぞれ出演してきた多くの映画の軌跡を見る——とくにリヴァに関しては「ヒロシマ・モナムール」から「アムール」にいたる長い軌跡を。もはや演出などどうでもよい、そうした残像とともに二人の姿を見るためだけにでも、映画館に足を運ぶ価値は十分にある。
音楽ファンのために付け加えれば、老音楽教師夫妻を描くこの映画で、弟子のピアニストを演じているのが、現実にピアニストとして活躍するアレクサンドル・タローであることも注目される。老夫婦が弟子のコンサートに行く場面、そして弟子が旧師のアパルトマンを訪ねてピアノを弾く場面でも、タローが実際にシューベルトやベートーヴェンを弾いている(映画で使われなかった曲も含めたサウンド・トラック盤も出ている)。俳優が楽器を弾くシーンにはほとんどつねに無理があり、見ていて居心地の悪い思いをさせられるだけに、ハネケのこの選択はさすがと言うべきだろう。マノエル・ド・オリヴェイラ監督の「クレーヴの奥方」(こちらは1908年生まれの監督が90歳を超えて撮った作品だ!)でフィーチャーされるマリア・ジョアン・ピレシュ(ピリス)のシューベルトなどに比べれば、演奏は特筆すべきものではないが、それもストーリーに合っていると言えば合っている。タローは、一方でラモーのような古い音楽、他方でサティやラヴェルなどの近代音楽を得意とするピアニストで、ライヴを聴くとハイテックな洒落た小型車を思わせる——というのは、ラヴェルの「クープランの墓」などは総じて素晴らしいにもかかわらず、最後の「トッカータ」になると技巧とダイナミズムにやや不足を感じもするという意味だ。とはいえ、この映画をきっかけにタローの音楽がより多くの人々に知られるとすれば、歓迎すべきことだと思う。
(*注)
私も坂本龍一のオペラ『LIFE』でこの言葉をサウンド・トラックから引用するよう提案した。それを含むテクストを収録した坂本龍一・高谷史郎『LIFE TEXT』[NTT出版]は、20世紀を代表する言葉のアンソロジーとしても有用であると自負するので、ぜひ参照されたい。ついでに言えば、坂本龍一を中心とする『Schola』でも、フランス近代音楽に関してはアレクサンドル・タローの録音を多く取り上げている。