プロフィール

小崎 哲哉(おざき・てつや)
1955年、東京生まれ。
ウェブマガジン『REALTOKYO』及び『REALKYOTO』発行人兼編集長。
写真集『百年の愚行』などを企画編集し、アジア太平洋地域をカバーする現代アート雑誌『ART iT』を創刊した。
京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員、同大大学院講師。同志社大学講師。
あいちトリエンナーレ2013の舞台芸術統括プロデューサーも務める。

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『Dance Fanfare Kyoto』雑感

2014年06月08日

某月某日

元立誠小とアバンギルドで『Dance Fanfare Kyoto』の企画「カケル(×)ダンス」4演目の内3つを観る。ちょっと面白かったのは「美術×ダンス」の「visiting」。村田宗一郎によるインスタレーションの中で、今村達紀が自らの振付で踊るという作品だ。

会場は元立誠小の元教室のひとつ。棚やら脚立やらたくさんの箱やらが並べられ、街のノイズのような環境音が流される中で、今村がある規則性に則った(ように見える)動きを繰り返す。歩みは部屋の四辺と並行だったり、対角線に合わせて斜めに進んだり、基本的には直線的。ダウジングする人のように長い棒を持って歩いたり、その棒を天井に向けて突き上げたり、床に置いたりもする。もちろん歩くだけではなく、クイックモーションで方向を変えたり、くるりと回ったりすることもある。最後のほうで、今村は空いていた窓をすべて閉めた。部屋の隅に置かれたサウンドのスイッチャーを足で操作する以外、規則外の動きはほとんどない(ように見える)。規則的に反復される動きからは、サミュエル・ベケットの『クワッド』を想い起こした。ひとりクワッド?

パフォーマンスは30分ほどであっさりと終わり、多くの観客はインスタレーションの細部をざっと眺めるだけで会場を後にした。僕もいったんは出たのだが、たまたまちょっとした所用があって教室に戻り、その際に話しかけてくれた村田と2〜3分立ち話をした。

それだけでも多くのことがわかった。村田は「箱」を主題として作品を作り続けている。インスタレーションでは、当然ながら空間内の物の配置や、物同士あるいは物と観客との関係に関心がある。今回は今村と話し合いながら作品を作った。教室も「箱」であり、窓を閉めるとその箱であるという事実が強調される。環境音的なサウンドも同じ発想で選択されている等々。正確にこんな言葉遣いではなかったけれど、僕はそのように受け取った。要は、リレーショナルアート的なコンセプトに基づいているということだろう。

すぐに思ったのは「ポストパフォーマンストークをやればよかったのに」ということだ。「作品は作品として自立しているからトークなど必要ない」という意見があることは承知している。あるアーティストは「作家には署名責任だけがあり説明責任はない」と断言したという。前の日に聴いた岡﨑乾二郎と浅田彰の対談でも、岡﨑がそれに近いことを言っていた(この対談は、本人たちは「雑談」と称していて、確かにそうだったかもしれないが、だとしてもきわめて刺激的にして贅沢な、最高度に知的な「雑談」だった)。

とはいえ、多くの観客の理解に資するために、ポストパフォーマンストークが持つ意味は大きいと思う。同様に考えてのことだろうが、『Dance Fanfare Kyoto』には「ねほりはほり」というプログラムもあって、この日は「形創(こわれ)る」というパフォーマンスの後に、振付・構成を担当した松尾恵美に批評家の高嶋慈が企画意図を尋ねていた。

松尾本人の口から「ゲシュタルト崩壊」というキーワードが出て、それなりに面白かった。だが、観客から集めた質問を代読するのに忙しく、高嶋自身による質問がほとんどなかったのが残念だ。時間的制約があるのも、観客の質問を広く募りたいというのもわかるけれど、事前にリハーサルを観て「2度観ることができたので作品の理解が深まった」という高嶋に、もっと時間を与えるべきではなかったか。

ポストパフォーマンストークあるいはプレパフォーマンストークに意味があるとすれば、それは作品の解釈を一義的に提供することではない。創作の背景に関する最低限の知識を観客に与え、作品についてもっと考えさせるための補助線を引いてみせることだ。最良の、すなわちバランスの取れた補助線を引くのは、やはり専門家の役割だと思う。『Dance Fanfare Kyoto』に限らず、今後のあらゆる上演や展示に期待したい。