プロフィール

小崎 哲哉(おざき・てつや)
1955年、東京生まれ。
ウェブマガジン『REALTOKYO』及び『REALKYOTO』発行人兼編集長。
写真集『百年の愚行』などを企画編集し、アジア太平洋地域をカバーする現代アート雑誌『ART iT』を創刊した。
京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員、同大大学院講師。同志社大学講師。
あいちトリエンナーレ2013の舞台芸術統括プロデューサーも務める。

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黒い画面の背後に——香月泰男の『シベリア・シリーズ』

2014年05月22日
連休明けのある日、YCAMに池田亮司展を観に行き、そのついでに長門市三隅の香月泰男美術館を訪ねた。浅田彰氏に「山口に行くなら香月も併せて観るといい」と言われ、大した期待も抱かずに、まさに「ついでに」行ったのだが、池田展に劣らず、あるいはそれを上回る感動を覚えた。浅田氏に感謝したい。

香月泰男美術館


自らの浅学を恥じるほかないが、香月に関する事前の知識はわずかなものだった。1911年、三隅生まれの洋画家。応召後の43年に満州に送られ、敗戦後にシベリアの収容所に抑留される。1年9ヶ月ほど過酷な労働に従事した後、47年4月に解放されて帰国。代表作『シベリア・シリーズ』に着手し、69年、同シリーズによって第1回日本芸術大賞を受賞する。74年死去……。作品は、画集、雑誌、書籍などでしか見たことがなかった。

美術館には『シベリア・シリーズ』から8点が選ばれ、展示されていた。同シリーズは全部で57点あり、そのすべてを所蔵する山口県立美術館で、実は連休最終日まで『没後40年 香月泰男展』が開催され、49点が展示されたという。それを見逃したのは残念だが、負け惜しみを承知で言えば、それでも大きな収穫が2つあった。1つは、画集と実際の作品が、まるで別物のように違うのがわかったことである。

「黒い太陽」1961年/116.1 x 72.9 cm/山口県立美術館所蔵


「北へ西へ」(1959年/72.9 x 116.7cm/山口県立美術館所蔵)


「アムール」(1962年/162.7 x 112.0cm/山口県立美術館所蔵)


『シベリヤ画集』(71年)など、香月本人が自身で装幀もし、編集や校正にも深くかかわったであろう生前刊行の画集と、74年の死後に、本人が一切関わることなく作成・刊行された出版物とでは、大きく異なる点がある。もちろんものによるが、死後刊行の出版物では、色調が概ね明るく、絵の細部がはっきり見えすぎるのだ。例えば「アムール」と題する作品(62年)には、画面の中央に2頭の馬が描かれている。死後刊行の画集で観るとそれがはっきりわかるが、実物の展示では、よほど目を凝らさないと見えてこない。

おそらく、いや間違いなく香月は、暗い黒をあえて、さらに黒々と描いている。それは、画面を一瞥しただけでわかったような気にさせるのではなく、真剣に見入らなければその背後にあるものを真に理解できないような描き方でなければ、自身の体験は伝えられないと考えていたからではないだろうか。上に「よほど目を凝らさないと見えてこない」と書いたが、逆に言えば、目を凝らすことによって初めて見えてくるものがあるのだと思う。

「海<ペーチカ>冬」(1966年/111.9 x 161.9cm/山口県立美術館所蔵)


「星<有刺鉄線>夏」(1966年/162.0 x 91.0cm/山口県立美術館所蔵)


「日本海」(1972年/96.0 x 194.3cm/山口県立美術館所蔵)


香月の自伝『私のシベリヤ』は、実はノンフィクション作家の立花隆が29歳のときにゴーストライターを務めて書いたのだという。没後30年の2004年に、立花自身の著書『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』に再録されているが、同書の「まえがき」で立花も以下のように述べている。

「最近特に香月さんの絵の図版で問題だと思うのは、撮影技術と印刷技術の進歩によって、肉眼で現物の絵を前にしたときよりも、より多くのものが見えすぎているものが少なくないことである。現代は、撮影技術と印刷技術を駆使すれば、普通では見えないものを見えるようにすることがいくらでも可能な時代になっているのである。しかし、そのようなライトアップしたり、製版修整(デジタル処理)したりすることで普通では見えないものも見えるようにしてしまった高精細図版で見るものが、果して香月さんがシベリア・シリーズで本当に見せたかったものなのか、というと、最近は疑問に感じるものが少なくないと私は感じている」

香月泰男美術館中庭


もう1つの収穫は、『シベリア・シリーズ』以外の香月の作品、特におもちゃを観ることができたことだ。香月のおもちゃは、板きれや針金、ブリキなどを用いて、人や動物や昆虫を象ったものである。アクロバティックな演技を見せるサーカスの一団がいる。笛や太鼓やラッパを奏でる音楽家たちもいる。ユーモアたっぷりにデフォルメされた、イノシシの親子やゾウやカタツムリもいる。美術館の中庭には、小さなおもちゃを何十倍にか大きくした、おもちゃと言うより彫刻と呼ぶべきかもしれない大きな作品も展示されている。

『シベリア・シリーズ』が人の世の暗黒面を描いたものだとすれば、おもちゃのシリーズは疑いなく、楽天的と言いうるほどの明るい面を表している。この対比は「もしも戦争がなかったら」という詮ない仮定を観る者の心に呼び起こし、深く胸を打つ。もちろん、シベリアでの過酷な体験があったからこそ、躍動感あふれるおもちゃたちが生まれたと考えることもできるだろう。また、戦前に描かれたほかの油画を観ると(それらも香月泰男美術館に収蔵・展示されている)、この画家が黒という色に、早い時期から魅せられていたこともわかる。しかし、やはり同館で観た、シベリアから日本の家族へ送った自筆絵葉書の明るさからすると、自身を心配する家族への気遣いを差し引いても、香月はそもそも生を肯定的に捉えていた人物ではなかったか、という思いを禁じることができない。

だからこそ、サーカス団や楽団の横に並べられた人形の一群にさらに心打たれる。おもちゃと同じ素材、同じ作り方で作られたそれらは『シベリア・シリーズ』の立体版と呼ぶべき作品群だ。キリストの磔刑像やピエタがある。いくつもの小石に目と口を描き、無蓋の貨車のような木箱に詰め込んだものがある。コンクリートブロックの中に窮屈な姿勢で入れられた人形は、まさに重労働に押しつぶされそうな俘虜を想起させる。香月はこれらのオブジェを、『シベリア・シリーズ』と同様、帰国が叶わず極寒の地で果てた戦友たちを想い出しながら、彼らの魂を鎮めるために作ったに違いない。後半生を鎮魂の作業に捧げた香月は、フランシスコ・デ・ゴヤやアンゼルム・キーファーを凌ぐ戦争画家と言ってよいのではないだろうか。絵だけではないから戦争芸術家と呼ぶべきかもしれないが。

香月が記したものを読むと、「戦争のリアル」が想像されて背筋に寒気が走る。断っておくが、香月に「戦場体験」はない。実際の戦闘を香月は知らない。応召し、訓練を受け、満州に動員され、投降し、捕虜になり、強制労働をさせられた。それだけの「戦争体験」だが、戦争を知らない者にとっては、およそ信じられないほど過酷である。

収容所に連行されるときには、シートで覆われた無蓋の貨車に「イワシのカンヅメのように」ギュウ詰めにされた。途中では、線路のわきに死体が転がっているのを見た。おそらくは満人に私刑を受けた日本人で、皮膚を剥がれ、赤い筋肉が剥き出しになっていた。最初の荷役の仕事では、米1俵ほど、つまり60kgほどの麻袋を背負され、路面が凍結した6kmの道を2往復させられた。食事は毎食、粉を雪で溶いて練り、団子にしたもののみ。野菜や蛋白質は一切なかった。列車が到着した駅から収容所までは80km。氷点下30度の中、覆いのないトラックの荷台に載せられ、顔面は寒風で凍りついたようになった。

古い収容所は丸太造りで、15畳敷きほどの部屋に50人が詰め込まれた。食事は、最初の3ヶ月は貨車に乗せられたときと大差なく、馬の飼料にするコーリャンを水で炊いたものを飯盒のふたに1杯。それが1食分で、塩気も脂気もなかった。課せられた仕事は森林の伐採作業で、食事が貧弱なためにみんなみるみる弱り切っていった。作業の合間にあらゆる野草を摘み、ソ連兵の食べたジャガイモの皮を拾い、飼っていたネコを殺し、収容所の家ネズミを狩り、野ネズミやヘビも食べた。食物についてはみんな恥も外聞もなく、争いもよく起こった。夜は、白樺の皮を燃やして暖を取るため、煤で顔が真っ黒になった。無数にいた南京虫に全身を刺されたが、作業で疲労困憊した身には振り払う力がなかった。外は、手袋なしで金属に触れると皮膚が張り付き、無理に引っ張ると剥がれてしまうような寒さで、便所では大便も小便も排泄後にすぐに凍ってしまった。最初にいた収容所で、250名の内30名以上が栄養失調と過労で死んだ……。

香月の部隊は戦闘に従事したことがなく、悪行を働いたことはなかった。だが、収容所では、他の部隊にいた者からこんな話も聞く。反抗的な部落の住民全員を、穴を掘って生き埋めにした。穴の底から老人が「助けてくれ!」と叫び、札束を振り回したが、兵隊がスコップで頭を叩き割り、頭を抱えてうずくまった上から、土をどんどんかぶせていった……。この挿話に続いて香月は言う。

「私自身が、そういう環境におかれていたら、どうしていたろう。自問してみると、あまり自信はない。自分で手を下すことはさけたとしても、やはり黙認してしまっていたのではないだろうか。私は強い人間ではない。(中略)シベリヤでも、生きつづけるために、あらゆる努力を払った。少々薄汚いことをしても、必ず生きのびてやるぞといつも思っていた。清く正しくとか、どこまでも人間らしくとかいうお題目を唱えていては、あの異常な環境を生きのびることはできなかったろう。生きるためには妥協もした。ゴマもすった。争いもした」

そう言いつつも、香月は、戦友が亡くなると必ず、死顔のスケッチを描いてやった。死者が出ると、香月がスケッチを描き、もと軍医が遺体から小指の第一関節を切り落とし、白樺を削った墓標を立て、僧侶だった兵士がお経を読む。スケッチと小指は、日本に帰り着くことができたら遺族に渡そうと思ってのことだったが、ある日、ソ連兵に見つかって没収されてしまった。死の3年前、1971年に刊行した大著『シベリヤ画集』の冒頭に、香月は次のような一文を置いた。

 霜が降り雪が積り紅葉が落ち散りし
 て墓標のありかも判別出来ぬように
 なっただろう 木の草の根が胸の背
 の足の骨の中まで入っているだろう

世の中は相変わらずきな臭く、この国でも軍備や交戦権をめぐり、国家主義的な政治家が勇ましい発言を繰り返している。だが、彼らの中に「戦争のリアル」をわかっている者はひとりもいない。1999年のコソヴォ紛争の際に、小説家ノーマン・メイラーは「オルブライト(当時の米国務長官)もクリントン(大統領)もコーエン(国防長官)も兵役経験がなく、(セルビア大統領で独裁者の)ミロシェヴィッチの敵ではない」と書いた上で、以下のように続けた。「戦闘は、そこに身を投じる者にとって、初めての性体験とほとんど同じくらいに奇妙でミステリアスな体験である。コソヴォの戦場における指揮系統の最高峰に彼らを置くということは、あらゆる肉体関係に未経験な少年に結婚コンサルタントになれと言うに等しい」。ウラジーミル・プーチンも習近平も、キム・ジョンウンもパク・クネも、もちろん安倍晋三も石破茂も、石原慎太郎だってまったく同じである。

そういえば安倍首相は山口県、それも長門市の出身である。勇ましい宰相は香月の作品を観たことがあるだろうか。あるのであれば、ぜひ感想を聞きたいものである。