プロフィール

小崎 哲哉(おざき・てつや)
1955年、東京生まれ。
ウェブマガジン『REALTOKYO』及び『REALKYOTO』発行人兼編集長。
写真集『百年の愚行』などを企画編集し、アジア太平洋地域をカバーする現代アート雑誌『ART iT』を創刊した。
京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員、同大大学院講師。同志社大学講師。
あいちトリエンナーレ2013の舞台芸術統括プロデューサーも務める。

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KYOTOGRAPHIEとKG+の3作家

2019年04月16日
第7回目となったKYOTOGRAPHIE京都国際写真祭とサテライト展示のKG+。今回は、いわゆる「写真」とは一線を画す非慣習的な作品の展示が面白い。まずはKG+から。

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KG+は今年も参加作家が多い。すべてを観たわけではないが、最も印象に残ったのが八木夕菜の「Blanc/Black」だ。「Blanc」はフランス語で「白」、「Black」はもちろん英語の「黒」。光のRGBを重ね合わせると白に、色材のCMYKを重ねると黒になるという、光学や色彩論の基本的原理に由来するタイトルである。

会場は昨年末に開業した小さなホテルで、作品はわずか6点(数え方によっては5点、あるいは7点)。最初にブラックボックス的な小部屋に入り、向かい合った壁に展示されたプリント2点を観る。室内に照明はなく、窓もないから部屋は相当に薄暗い。当初は真っ黒な矩形が背景の壁の中にかすかに見えるだけだが、直島にあるジェームズ・タレルの「Backside of the Moon」などと同様に、十数分経つと細部が浮かび上がってくる。多くは直線からなる、厳粛な形式を備えた建築物であることがわかるだろう。

次に、2階に上がって通路のように細長いバーに入る。バーカウンターの手前の壁際に、上部にライトボックスを組み込んだシンプルなデザインの台座が4つ置いてある。カラーポジが載せられていて、それぞれに鳥居や、神社の拝殿だか本殿だかが写っている。いずれも露出過多のような白っぽい映像で、しかも一見ブレているように思える。しかし、よく見ると露出は適正であり、ブレてもいないことがわかる。

バーの奥に1階からの吹き抜け的な空間があって、そこから種明かし的なスライドショーを観ることができる。4m×6mほどの大型スクリーンへの投影である(これを作品として数え上げるかどうか、また、ブラックボックス的な部屋の中の2点を独立した作品と見るかどうかで合計点数は異なる)。最初に撮られたクリアなイメージに、わずかに画角が異なる映像が重ねられてゆく。そのたびに画面は明るくなり、樹木の緑や壁の朱塗りなどの色が失われ、果ては雪景色のように真っ白に(透明に)なる。あるいは逆に、映像が重なるにつれて画面は暗くなり、色は濃度を増し、ついには闇夜のように真っ黒になる。

All photos by Yagi Yuna ©2019


作家によれば、手持ちカメラで同一の被写体を連写し、重ね合わせたものだとのこと。上述したように、ポジに焼き込んだ場合にはRGBが重なって白くなり、プリントではCMYKが積層して黒くなる。文字どおり重層的なイメージだが、白っぽいポジにも黒っぽいプリントにも、よく見ると細部に色が残っている。プリントは、心なしか立体的に盛り上がっているようにも思える。被写体は天照大御神が祀られる日向大神宮(京都)と日御碕神社(島根)だという。アマテラスは言うまでもなく太陽神であり、「光」、正確にいえば「光で描く(photo/graph)」という作品テーマに呼応し、それを補強している。
作家が被写体に相対した時間と空間が、プリントとポジに込められている。我々観客は、作家が(カメラが)瞬間瞬間に捉えた時空間の記憶を追体験することになる。時空間とは、ここでは光にほかならず、すなわちこれらの作品は「光の積分」ということになるだろう。積分という方法は他の多くの被写体に有効だと思う。シリーズの展開が楽しみだ。

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イズマイル・バリーの「クスノキ」も光(と闇)を主題とする作品である。会場は二条城の御清所(おきよどころ)、すなわちかつての配膳室。64畳の板張りの部屋に照明は一切なく、観客が出入りするとき以外は外光もほとんど入ってこない。写真と映像作品はまっ暗に近い室内に数点展示されているが(主に、2017年にパリのジュー・ドゥ・ポームで発表されたものから選ばれている)、注目すべきは個別の作品ではなく全体である。

御清所は木造建築であるがゆえに、板の隙間などからわずかに光が入ってくる。そもそも空いていた隙間もあれば、アーティストが自ら空けた穴もある。簡単に布で覆った箇所では、風が吹くと光がこぼれるように漏れ入ってくる。メインの部屋と隣接する部屋とを仕切る板戸が少しだけ開いていて、覗き見るとビデオ作品が上映されていることがわかるけれど、何が映されているのかは少なくとも僕には重要ではなかった。外に光が存在し、その光が内に入ってくること、それを感じ取ることこそがこの作品の主眼であると思う。

2cm弱四方の穴を覗くと、その向こうにある部屋の壁板にも穴が空けてあり、作品名の由来であるクスノキが鮮やかな緑色を目に送ってくる。内と外の、モノクロームとカラーの、そして闇と光の対比。作家とキュレーターが「カメラオブスクラ」と呼ぶとおり、この部屋は暗室であり、我々は印画紙やポジフィルムに定着された写真ではなく、定着されざる被写体を目にすることになる。自然光によって刻々と変わりゆく景色=映像との、瞬間的な遭遇はまさに一期一会。建築物の特質を生かした、空間への見事な干渉だ。

きれいに額装されたプリントをホワイトキューブの人工的な光の中で観る。それを慣習的な写真鑑賞とするなら、八木とバリーの作品は完全に非慣習的である。だが、この非慣習的な2作は、きわめて原理的に「写真とは何か」を問うている。「写真とは何か」という問いは、言うまでもなく「光とは何か」「見るとは何か」という問いをも含み込む。人間の情報入力の8割は視覚経由とも言われるが、そうだとすれば、これら2作品は「人間とは何か」という根源的な哲学的問いをも我々に投げかけていることになるだろう。

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金氏徹平の「S.F. (Splash Factory)」は、京都新聞地下の印刷工場跡に、いまや絶滅寸前と思われるメディアの記憶を刻み込んだ。様々な色のインクの染みを幾重にも重ね、背景を削除して抽象化した画像。現在稼働している宇治工場の映像。その音をもとにしたサウンドや、シンプルだが効果的な照明など。それぞれが、既にそこにあるインクの匂いと相俟って、巨大な空洞と化していた工場の、かつてのエネルギッシュなありようを想起させる。「流動」や「接続」をモチーフとした金氏作品は、それらすべてを有機的に結びつけ(流動的に接続し)、会場をカラフルでプレイフルな、そしてちょっぴり危険な遊園地に変貌させた。
大きな手柄は、2000平米ほどの空間すべてを使ったことと、パイプを組んで階段状の「展望台」を内部に複数個つくり、旧工場の2階部分を見えるようにしたこと。こうすることによって会場のすべてを見晴るかすことができる。これまでの展示にはない試みだと思うが、この場所の圧倒的な存在感と廃墟感を十全に感じさせてくれた。これもまったく慣習的ではない(それどころか「写真」と呼ぶことさえためらわれる)作品だが、今回のKYOTOGRAPHIEでは、バリー作品とともに必見のインスタレーションだと思う。

KYOTOGRAPHIEKG+は5/12(日)まで京都市内の複数会場で開催中。