リオ五輪閉会式の「引き継ぎ式」(東京大会プレゼンテーション)が現地時間8月21日に行われた。テレビの生中継を観ただけだが、AR(拡張現実)やプロジェクションマッピングの技術は非常にレベルが高くて感心した。だが、「おや?」と思ったこともある。いわゆる「クールジャパン」の強調や、「閉会式に間に合わない」という安倍首相がスーパーマリオに変身し、ドラえもんがつくってくれた土管で地球の裏側にワープするという——ロンドン五輪開会式の、ジェームズ・ボンドがエリザベス女王をエスコートするという筋立てによく似た——アイディアなど。しかし、本稿で論じたいのはそのことではない。首相の登場が序幕だとすれば本編に当たる、パフォーマンスの演出についてである。
「安倍マリオ」登場〜退場後(YouTube映像では5分30秒くらいから)、ARを駆使したパフォーマンスが始まる。最初は東京五輪で実施される33の競技のアニメーション。約30秒後に50人のダンサーが現れ、NHKアナウンサーの表現に従えば「光を放つフレーム」の内外で「33の競技をイメージしたアクロバティックなパフォーマンス」を始めた。フレームとは金属製とおぼしい直方体と立方体の枠のことで、大中小3種類・計45個あるという。いずれも人がひとり中に入れて、押したり引いたり転がしたりできるほどの大きさだ。人とフレームによるダンスがひとしきり続き、これもNHKアナウンサーによれば「会場を未来的な空間にし、観客を一気に引き込みました」とのことだ。
たいへん結構なことに思えるかもしれないが、大きな問題があった。人とフレームによるダンスという発想自体が、ある先行作品によく似ているのだ。シディ・ラルビ・シェルカウイとダミアン・ジャレが共同で振付を行い、アントニー・ゴームリーが舞台美術を担当した
『バベル BABEL (words)』である。付け加えるまでもないが、シェルカウイ氏とジャレ氏は国際的に活躍する振付家。「サー」の称号を持つゴームリー氏も世界的に著名な彫刻家で、ヴェネツィア・ビエンナーレやドクメンタへの参加経験があり、1994年にターナー賞を、2013年には高松宮記念世界文化賞(彫刻部門)を受賞している。
●傑作『バベル』との類似
『バベル』は、ひとことで言えば言語と身体言語の、つまりは人と文化の多様性を称揚し、諍いではなく、まっとうなコミュニケーションを促す作品だ。2010年ロンドン初演。以来、日本を含む各国に巡回し、この夏には舞台芸術最高峰のフェスティバル「アヴィニョン演劇祭」に招かれ、メイン会場である教皇庁前庭で公演を行った。2011年には、英国で最も権威があるとされる舞台芸術賞「ローレンス・オリヴィエ賞」の「最優秀新作ダンス作品賞」を受賞。ゴームリーは、2人の振付家とともに直方体の金属製フレームをダンスに取り入れるという画期的なアイディアを考案し、同賞の「ダンスにおける卓越した業績」賞を受賞している。初演時のレビューを少しだけ紹介しよう(いずれも抜粋)。
「作品のタイトルと基調は、黙示録的な聖書の物語から取られている。(中略)そして、アントニー・ゴームリーの舞台美術。光を反射するスチールの立方体(ママ)から成るインスタレーションは、一連の塔や空間に変容し、出演者はその中に蝟集したり孤立したりを繰り返す。コレオグラフィーは、結合と離脱のダイナミズムを巧みに描き出す。ひとりのダンサーが、温かく滑らかなパドゥドゥーの抱擁を脱け出して、立方体(ママ)の中に囲い込まれるとき、彼の孤立という事実は背筋を戦かせるような衝撃を与える」(
Judith Mackrell「Babel」。2010年5月19日付『Guardian』)
「アントニー・ゴームリーの巨大な銀色の直方体フレームを、舞台上で20分ほど動かしてくれるだけで、人生(とサドラーズ・ウェルズ劇場に行くこと)はこの上なく幸福なものになることだろう。ゴームリーの(真四角だったり細長かったり、あるいは幾何学の教科書に載っているヤツのように)形を変える6つ(ママ)の骨格状の箱は、舞台袖のベージュのパネルや黒い背景幕の前で、出演者によって様々に配置されたり動かされたりする。その効果は、目を奪われるほどに美しく、かつ刺激的だ。フレームは、住居棟に、牢獄に、都市に、そしてバベルの塔になる。(中略)私はパフォーマーたちに言いたくなった。『ただ、舞台装置に仕事をさせろ!』と」(
Clement Crisp「Babel, Sadler’s Wells, London」。2010年5月21日付『Financial Times』)
「ゴームリーの功績は計り知れない。(中略)『バベル』においては、軽量アルミニウムで出来た様々なプロポーションの5つの直方体を用いて、明らかに建築的な文脈に移ってきている。これらの直方体は、パフォーマーによって操作され、部屋、箱、コマ、タイムトンネル、入国審査場など、取り違えようがなく数え切れないほどのセットに易々と姿を変える。すべてが一体化したときには、全体の形は見事なアールデコ建築となった。会場には建築家の姿が散見されたが、彼らの目はほとんど飛び出さんばかり。(中略)ゴームリーの本作への貢献は、比類のない彫刻的=建築的ダンスシアターのブランドを確立した」(
Graham Watts「Review: Sidi Larbi Cherkaoui / Damien Jalet / Antony Gormley in Babel (words) at Sadler’s Wells」。2010年5月19日付『londondance.com』)
2014年に『バベル』を招聘した
札幌国際芸術祭(SIAF)2014の坂本龍一芸術監督は、以下のようなコメントを寄せてくれた。
「私は残念ながら生で『バベル』を見たことがなかったのですが、私がディレクターを務めた札幌国際芸術祭2014では『バベル』を招聘することに決めました。なぜなら、YouTubeで見たこの作品に大きな衝撃を受け、現代の日本の多くの人に見てほしいと思ったからです。
言うまでもなく聖書からとられたこの題材を、これほどの強度をもって、抽象性と具体性の分かち難い表現にまで昇華させた例を、私は他に知りません。ここでいう抽象性と具体性とは、ダンスという芸術が必然的にもつ形象的な追求と、それが人間の肉体に依りなされることであると同時に、アントニー・ゴームリーによる立体の、これ以上足すことも引くこともできないであろうと思われる、完璧な美術をさします。彼の立体は、単なる舞台美術を越えて、これなしにはそもそも『バベル』 という作品自体が成立しない程、深く作品に内在化されていると言っていいでしょう。その、無機的で抽象的な立体から紡ぎ出される様々な形象は、私たち人間自身のヒトとしての同質性と、しかしそこから生じる 無限とも言っていいような多様性を、そのまま表しているように思います。その意味でも、これは肉体によるダンスであるとともに、立体という抽象物のダンスでもあると思うのです」(原文全文掲載。Eメールによるコメント)
●人とフレーム双方への振付
要するに、長いダンスの歴史の中で、複数の立体フレームを有機的な美術装置として舞台に導入し、しかも人とフレームの双方にコレオグラフィーを施したのは『バベル』が最初であるということだ。フレームは単なる小道具ではない。ダンサーと同様に振付が施される対象であり、シェルカウイ、ジャレ、ゴームリーという、ほぼ間違いなく芸術史に名を残すであろうスーパースターたちが、議論を重ね、知恵を絞り、試行錯誤の果てに創り上げた独創的な仕事である。時間をかけて確立された新しい「ブランド」を、安易に真似することは倫理的に許されないだろう。
ところが、リオの引き継ぎ式で行われたパフォーマンスは、同様のフレームを用い、かつ、フレームがなければコレオグラフィーが成り立たないという点で『バベル』に酷似している。筆者が知る限り、類例はない。立体フレームを用いた例はもちろんあるが、いずれもが小道具か、パフォーマーの位置と動きを規定する空間としての使用にとどまっており、フレーム同士が、あるいはフレームとパフォーマーが有機的に関連して、新たな意味やレイヤーを生み出しているケースはほかにないのではないか。
といっても、引き継ぎ式のフレームが生み出した意味やレイヤーはあまりに少ない。テレビの生中継を観て、さらにYouTubeで確認した限りでは、東京五輪のエンブレムと東京のスカイライン(街並み)をつくっただけである。前者は言われなければそれとわからない。後者は建物の影を象ったプロジェクションに助けられていた。パフォーマーの演技と相俟って、部屋や牢獄や入国審査場、さらにはタイムトンネルやバベルの塔にまで変容した『バベル』のフレームには比べるべくもない。9月18日の
パラリンピック閉会式でも7つのフレームが使われていたが、このときは単に背景として用いられていたようだった(書き添えれば、障碍者と健常者が入り乱れるダンスは素晴らしいものだった)。
9月15日に放送されたNHK『クローズアップ現代』は「仕掛け人がとことん語る!~リオ閉会式“奇跡の8分間”~」と題され、引き継ぎ式の演出・振付家であるMIKIKO氏は、予算的な制約で50人しかパフォーマーを起用できなかったこと、フレームを装置として「考え出した」ことについて問われ、以下のように答えている。
「50人っていう数字をフィールドで少なく見せないために、いかに1人を拡張して見せるかというのがテーマでもありましたし、その装置を自分たちで運んで自分たちでどんどん展開していくというふうにせざるを得なかったんですけど、結果、それが日本的というか。知恵を使わないといけなかったことが日本らしく見えて、よかったなあとは思っています」
●「再利用を見ると辛くなる」
だが、『バベル』の共同振付家のひとり、ダミアン・ジャレ氏は、以下のように憤る。
「昨今、インターネットは“インスピレーション”の海となった観があります。そして、そこで見たものをそのまま再生産することがごく自然なことだと考えている人もいるように見えます。
『バベル』の建築のシーンとオリンピック閉会式の写真を並べて見ると、“7つの間違い探し”のようです。とはいえ、どちらの場合においても、重要なのはフレームが振り付けられていること。彼らがつくった内部空間において、ダンサーたちは我々と同様にフレームを同期させて動かしています。
複数のアーティストが、互いにそれと知らずに同一のアイディアを抱くことはありうると思います。しかし『バベル』は6年以上にわたって世界中を巡回し、2014年8月には坂本龍一氏の招聘により、札幌と東京の大規模会場において計5回の公演を行いました。上演に当たっては、トレーラーや画像がメディアによって大量に拡散されています。
もうひとつ重要なのは、オリンピック閉会式に関わったアーティストの多くが、『バベル』日本公演を企画したのと同じ芸術的なコミュニティに加わっていることです。言い換えれば、今回の場合、偶然であるということはおよそ不可能だと思われます」(英語原文より抜粋翻訳。Eメールによるコメント)
シディ・ラルビ・シェルカウイ氏もコメントを寄せてくれた。
「我々の芸術的なアイディアは、限られた予算内で集団的に練り上げるという、特別な環境でつくったものです。それが、このような巨大マスメディアイベントにおいて、他の商業的なアーティストによって、そもそもの意図とはいかなる関係もない形で再利用されるのを見ると、辛い気持ちになります。
以前にもこうした経験があります。個人的には大好きなポップアーティストのビヨンセが、我々のパフォーマンス『sutra(スートラ)』のアイディアを取り入れ、自分のライブコンサートに組み込んだのです。
若いアーティストが年長のアーティストを模倣するとき、そこにはある種の魅力、ある種の純粋さがあります。それは、うれしくもあれば、美しくさえ感じられることです。
巨大な予算の商業的組織が、予算が潤沢ではない現代芸術の世界から、原典を示すことなくアイディアを取り入れるとき、それは人を悲しませ、苦痛をもたらすものになりえます」(英文原文を全文翻訳。Eメールによるコメント)
●「類似」が起こった理由
今回のケースが起こった理由として考えられるのは、以下の4つだろう。
1:引き継ぎ式のスタッフは『バベル』を知らず、アイディアは偶然の一致だった。
2:引き継ぎ式のスタッフは『バベル』を知っていて、リスペクト、オマージュとして「流用(アプロプリエーション)」した。
3:引き継ぎ式のスタッフは『バベル』を知っていて、同じアイディアを用いるのはまずいかもしれないが、露見しないと考えて「盗用」した。
4:引き継ぎ式のスタッフは『バベル』を知っていたが、同じアイディアを用いてもかまわないと判断した。
1は、ジャレ氏が書いているとおり、非常に考えにくい。『バベル』は2014年8月の札幌公演の後、東京でも上演されている。世界的彫刻家のゴームリー氏はもとより、2人の振付家の仕事も、クリエイティブ産業に従事する者なら知らない者はないはずだ。引き継ぎ式の制作スタッフには、『バベル』のクリエイターの直接の知己もいると聞く。
2はありうる。とはいえ「リスペクト」はそもそも「振り返る」という意味であり、それが転じて「高く評価する」「尊重する」という意味に変わった言葉だ。「オマージュ」は、かつては封建君主への忠誠を誓う儀式や行為を指した。アプロプリエーションは既存の表象システムから取り出したイメージを新たな文脈に組み込む行為である。いずれも、オリジナルは「権威あるもの」「質が高いもの」「広く知られているもの」であり、その逆はありえない。アプロプリエーションにはオリジナル批判を目的とするものもあるが、前提となる強弱、高低、有名無名という対比は変わらない。文学やマンガにおける2次創作を考えればわかるだろう。
今回のケースはどうか。作品の質は明らかに『バベル』が高い。だが、知名度(というより普及度)の点では、シェルカウイ氏が「巨大マスメディアイベント」と呼ぶオリンピックに敵うわけはない。制作費も、引き継ぎ式のほうが桁違いに大きいだろう。何よりも、パフォーマンスが行われた際にも、その後にも、「『バベル』に影響を受けた」というようなコメントは出されていない。つまり、引き継ぎ式の光るフレームを用いたパフォーマンスが『バベル』へのオマージュやアプロプリエーションだとはとても言えない。
3はありうるが、現実的には考えにくい。現に、こうして露見している。ただし、『クローズアップ現代』ではMIKIKO氏が自らのアイディアだと明言している。氏がフレームを「考え出した」というのはNHKによるナレーションだが、氏はそれを否定せず「(自身の、あるいは制作チームの)知恵」だと語っている。氏が『バベル』を知らなかった(観ていなかった)ことはありえなくはないだろうが、制作チームの同僚が知らなかったということは、1に書いた通りおよそ考えられない。「こういう先行作品がある」と誰かが言えば済んだ話だろうが、その指摘が何らかの事情でなされなかった可能性はある。
4もありうる。倫理的にはともかく、法的には問題ないという判断だろう。広告などのビジュアル表現にどこかで見たことがあるようなものがときどきあるが、ほとんどがこのケースではないか。
僕には法的なことはわからないが、ものづくりに携わる人であれば、3は言うに及ばず、4もやってはいけないことだと思う。新国立競技場問題やエンブレム問題が起こったにも関わらず、五輪組織委員会の(そしてNHKの)チェック機能は働かなかった。それはそれで大きな問題だが、それよりもやはり作り手自身の倫理を問いたい。具体の創始者である吉原治良は「人の真似をするな。これまでにないものをつくれ」とメンバーを鼓舞した。それが表現者の矜持ではないのか。
当事者がこれからどう答えようと、あるいは答えまいと、法的にOKだろうとNGだろうと、これは実に情けない事件だと僕は考える。きちんと頭を下げて謝り、あらためて『バベル』のチームに東京五輪開会式の演出を依頼するか、コラボレーションを請うたらどうだろうか。引き受けてくれるかどうかはわからないが、『バベル』の再演は、直近では
この10月末にリンカーン・センターで行われる。引き継ぎ式の制作チームに未見の者がいるなら、JOCや五輪組織委員会の面々と一緒に、まずはニューヨークまで観に行くことをおすすめしたい。