プロフィール

小崎 哲哉(おざき・てつや)
1955年、東京生まれ。
ウェブマガジン『REALTOKYO』及び『REALKYOTO』発行人兼編集長。
写真集『百年の愚行』などを企画編集し、アジア太平洋地域をカバーする現代アート雑誌『ART iT』を創刊した。
京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員、同大大学院講師。同志社大学講師。
あいちトリエンナーレ2013の舞台芸術統括プロデューサーも務める。

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複製技術時代の演劇——あごうさとし作・演出『純粋言語を巡る物語 — バベルの塔II -』

2015年12月18日
ブラックボックスの中央に4畳半ほどの白い床が設えてある。高さが不揃いなスタンドが4つの頂点に立てられ、人の耳よりやや低いくらいの高さにBoseのスピーカーが設置されている。床面の各辺の中央にもスピーカーが仕込まれていて、手渡されたプリントには、「(鑑賞に)一番のおすすめの場所は、勿論白い舞台の中心です」と書いてある。でも、どこから観てもかまわないし、移動してもいい。

白い床の周囲には、大小様々のモニターが置かれている。画面が横長のものが4台、縦長が3台。縦長のひとつは台の上に、あとふたつは2台重ねてあって、どちらも人の背くらいの高さだ。この7台のモニターと、背後の壁ほぼ全面に映し出される映像を観て、スピーカーから流れ出る役者の声と音楽を聞くことが『純粋言語を巡る物語 — バベルの塔II -』の「観劇体験」の大半を占める(映像:山城大督。俳優:太田宏+武田暁。ドラマトゥルク:仲正昌樹。音楽:public on the mountain)。生身の役者は登場しない。
用いられる3つのテキストは、いずれも岸田國士のもの。最初は、夫婦の会話劇『紙風船』だが、ほどなくして観客は意表を突かれることになる。壁に大写しにされる台詞のほかに、モニターの何台かにト書きが表示されるのだ。「演出上、舞台は2700mm四方の白い床のみ。ほとんど下着のような格好で2人は対角線上に対峙する。夫も妻も、どこかいらだっている様子」……。

すると、縦長のモニターに夫と妻らしき映像が映し出される。モニターは正方形の「舞台」のまさに「対角線上」に置かれていて、上述したように人の背くらいの高さである。だから映像はほぼ等身大なのだが、巧みに焦点を外したブレボケ画像で、性別がようやく判別できる程度。役者の表情を読み取ることはおろか、顔かたちを正確に認識することもできない。

横長のモニター画面に「妻は夫の周りをぐるぐる回る」というト書きが出る。すると縦長の画面に映るのは妻(らしき映像)だけになり、しかも2つのモニターをぐるぐる移動する。台詞も同様に、ぐるぐる回って聞こえる。サラウンドのスピーカーは、この演出のために仕込まれていたのだった。



『紙風船』には、東京に住む夫婦が鎌倉に遊びに出ることを空想するシーンがある。ここがこの芝居の眼目であり、白眉だろう。夫婦は言葉のやり取りだけで小旅行を想像する。観客はそのやり取りの音声を聞き、テキスト(ト書きと台詞)を読みながら、様々な情景を想像する夫婦と、夫婦が想像するものを想像する。イメージがほとんど与えられないまま、不在のイメージを二重に想像するのである。

戯曲を読めば同じことが体験できる。だが、そこに演出は介在できない。ラジオドラマでは同じことが体験でき、演出が必要とされる。だが、ラジオは劇場ではない。あごうは演出家として、劇場で体験しうる、最もミニマルな形の演劇に挑戦したのだろう。生身の役者は現前せず、劇場空間には(スタッフと装置を除けば)視線を様々な方向に投じる観客だけがいるわけだが、観客はその気になればモニターから目を離して他の観客を観察することができる。だから、他の観客が二重に想像している不可視のイメージを、三重に想像することさえ可能だ。四重、五重になりうる、しかもネットワーク的になりうるこの行為(Aが二重に想像するイメージをBが三重に想像し、Bが想像するそのイメージをAあるいはCが四重に想像し、AあるいはCが想像するそのイメージを……)は、全員の視線が舞台に集中する「普通の演劇」では、不可能ではないにせよ容易ではない。

『紙風船』『動員挿話』に続いて『大政翼賛会と文化問題』のテキストを見せたのもよかった。岸田の転向や右翼思想を批判し、嘲笑するというより、具体的で生き生きとした戯曲の台詞と、抽象的で想像力をまったく刺激しない文章との対比を、面白く見せようという意図だろう。テキストを読む声の背後にダンスミュージックを配し、ト書きで観客を踊らせようとする試みは、僕が観た公演(初日マチネ)では不発に終わった。大政翼賛会の時代の群集心理を疑似追体験化するという、ややベタな演出に多少の違和感はあったけれど、ドナルド・トランプやマリーヌ・ルペンや安倍某に熱狂する衆愚がはびこる時代には、これくらいやらなければ表現者の沽券に関わるということかもしれない。



ひとつだけ腑に落ちなかったのは、夫が「向うに見えるのが江の島だ」と言い、妻が「いゝ景色ね」と応じる場面で、渚に打ち寄せる波の映像が映し出されたことだ。不在で不可視だったはずのイメージが、そのときだけ突然、現実のものとして明瞭に観客に示される。観劇後にあごうに尋ねたら「あそこは夫の感情が最も高まるところだから」と答えてくれたが、個人的には興ざめだった。終幕近く、夫婦が懸命に風船をつき、奪い合う場面で、本物の紙風船がぽろりと天井から落ちてくる。息を呑むほどに鮮やかな現実の介入は、あの一瞬だけにするほうが劇的効果は高まったと思う。

サミュエル・ベケットにとって演劇とは、いや、あらゆる芸術とは、何よりも想像力を駆動させるための装置だった。像を想わせる、すなわちイメージを脳内に結ばせる力。その源となるものは芸術のジャンルによって様々だが、演劇の場合、基本的には台本、つまりテキストである。テキストをもとに、しかるべきイメージを観る者・聴く者の脳内に構築せしめること。演出家の仕事とは、そのための最適な方法を発見し、実践することに尽きる。言い換えれば、イメージ構築のために最適と思われる補助線をどのように引くかということだ。テキストはどの部分を選ぶべきか、映像はどこまでクリアに見せるべきか、音楽と照明はどのように用いるべきか等々。単なるライブ演奏付きのアニメ上映をオペラと呼ぶ愚かな行いとは対照的に、演劇のありようと想像力駆動の可能性を問うた意欲的な試みだった。


※公演は12月21日(月) まで。REALKYOTO PICKSあるいはアトリエ劇研のウェブサイト参照。