プロフィール

小崎 哲哉(おざき・てつや)
1955年、東京生まれ。
ウェブマガジン『REALTOKYO』及び『REALKYOTO』発行人兼編集長。
写真集『百年の愚行』などを企画編集し、アジア太平洋地域をカバーする現代アート雑誌『ART iT』を創刊した。
京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員、同大大学院講師。同志社大学講師。
あいちトリエンナーレ2013の舞台芸術統括プロデューサーも務める。

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地点の『桜の園』

2014年06月27日

某月某日

アンダースローで地点の『桜の園』を観る。言わずとしれたアントン・チェーホフ四大戯曲の最後の作品。台本の冒頭には「——喜劇 四幕——」と記されている。

舞台はおよそ四間四方、天井高二間ほど。幕はなく、上手と下手に男優がひとりずつ板付いている。上手のロパーヒン(小林洋平)は毛皮の襟付きコートに短靴。下手のトロフィーモフ(小河原康二。わずかだがエピホードフの台詞も語る。地点の他の作品の例に漏れず、役者の数も台詞も削減されている)は着古した灰色のコートに長靴。床には、中心のおよそ三間四方を囲んで幅一尺ほどの白い帯。実は大量の1円玉だ。

撮影:松本久木/写真提供:地点(全写真)



中央には古い木の窓枠が十数枚重ねられ、下手には脚立、その奥に小さな台とサモワールらしきものがある。やがて、上手から女優3名と男優1名が顔をぬっと突き出し、1円玉の結界を超える。板付きの2名と対照的に、垢抜けた、白い、とはいえ薄汚れ、ややくたびれた印象を与える衣装。全員で窓枠の上に乗り、1枚の額縁状の窓枠を支えながら、その中に雁首を並べて喋り始める。ワーリャ(窪田史恵)、ラネーフスカヤ(安部聡子)、アーニャ(河野早紀)、ガーエフ(石田大)による「家族の肖像」だ。アーニャひとりがわずかに後方に立ち、頭ひとつ分だけ高く、3名は顔を横に並べているから十字架のようにも見える。今回の上演では映像の投射はなく、代わりに横長の帯状の照明がアーニャの頭の影をくっきりと後方の壁に映し出していた。

滅びゆく旧貴族階級と農民から成り上がった新興ブルジョワジーとの対比が鮮やかで、『桜の園』の物語的背景を見事に表現したビジュアルだと言えるだろう。コインすなわち金によって外界と区切られているのは、旧貴族たちの領地(桜の園)や屋敷にして、彼らの階級や人生そのものに違いない。川俣正やソン・ドンや塩田千春を(そしてもちろんタデウシュ・カントルを)想い起こさせもする窓は、外へと開ける出入口ではあるが、旧貴族たちは自分たちの世界から出てゆくことになかなか踏ん切りが付かない。ただひとり、最も若いアーニャだけが、貧しいが理想を高らかに語るトロフィーモフとともに、外界=世界への憧れを隠さない。


地点の俳優の発話はおよそリアルとは言えず、ときに早口、ときにゆっくり。滑舌は恐ろしく良いが、統辞法に従うことなく文章が切断される。「誇り」が「ほっこり」、「続く」が「とぅどぅく」などと発音され、不思議な抑揚やアクセントも加わる。小さな囁きから大音量の絶叫まで音量も様々で、童謡かオペレッタのようなメロディが付くこともある。三浦基の演出によるこうした発話は、全員が同じで没個性的ということではまったくない。逆に、アンリアルにして極めて個性的な発話であり、したがって役者・役柄は明快に区別される。ワーリャとアーニャも、ロパーヒンとトロフィーモフも相異なる。目を閉じて聴いたとしても、台詞回しだけで、どの役柄が話しているのかがわかるだろう。

なぜ役者にそんな発話法を強いるかといえば、ひとつには衣裳と同様、役者・役柄の類型化と差別化を図るためだろう。次に、大胆にサンプリング&リミックスされた台詞の、その特殊性を増幅するという意図もあるのではないか。ただしそれは、断片化された台詞のそれぞれを際立たせると同時に、いずれにも特権性を持たせず、ひとつひとつの台詞が、一緒くたになったスープの具材に過ぎないという事実を強調する。3つ目は、登場人物や物語への没入・同化の阻止。文字どおりの、ブレヒト的な異化効果である(ガーエフが玉突きに関する台詞を口走る度に、リアルな玉突きの音が流されるのも同じ効果を狙ってのことだろう)。地点の独特の発話法は「様式化」などと安易に呼ばれることがあるが、仮にそうだとしても、様式化そのものが目的であるはずはない。三浦が目指すという戯曲の「再構成」に資すことこそが、まず望まれているのだと思う。


ここでは戯曲を物語と言い換えてもよいだろうが、地点の芝居において、物語の要素が懐石やコース料理のように順番に供されることはない。各要素は大鍋にまとめて放り込まれ、時間軸を無視して、あたかもランダムに取り出されたかのように鍋の底から浮かび上がってくる。言うまでもないが、時間軸に従わず、戯曲の「世界」をまるごとぽんと出すようなその手口自体が異化効果を生む。「あなたたちが観ているものは虚構に過ぎない」。その事実を強烈に意識させられながら、観客は気が付くと鍋を平らげてしまっている。食材を食べた順序、すなわち物語が生起した順番は胃袋、もとい頭の中で無秩序に混ざり合い、終演後に残るのは「鍋を食べた」という幸福な記憶でしかないだろう。

だが、記憶とはそもそもこのような性質を持つものではなかったか。よく知られているように、また、我々の経験からも明らかなように、記憶は必ずしも時間軸に沿って保存・再生されない。『桜の園』を、ある時代に属する人々の集団的記憶を描いたものとして捉えるなら、彼らの記憶は鍋の中の具材よろしく、すでに混ざり合い、融け合っているはずだ。舞台の上の彼らは自分たちの過去を想い出している。その(過去の)時代の彼らは、さらにその前の過去を想い出すこともある。そして現代の我々は、彼らが過去に属し、過去を想い出していることを承知している。そうした重層的な構造を、単純に線的な方法で表現するのは、不可能ではないにせよ容易ではないだろう。

例えば、本来は第三幕終盤でようやく明らかになる桜の園の買い手の名は、開幕後30分もしない内にあっけなく明かされる。1904年の初演以来、このシーンをクライマックスに持ってきた演出家がほとんどだろうが、三浦の「再構成」はその伝統を覆した。チェーホフの時代には「同時代の現実のデータベース」だった(かもしれない)戯曲は、つとに数十年前から「過去の記憶のアーカイブ」と化している。だから、記憶という大鍋の中でクライマックスはどこにあってもいい(僕はチェーホフ作品が、時代を問わない普遍的な主題群を持たないなどと言っているのではない。その主題群を含め、すべてはアーカイブに入っていて、しかも我々の誰もがその事実を知っていることを確認したいだけだ)。とはいうものの、三浦の企みはアンチクライマックス演劇を作ることにあるのではなさそうだ。その証左は終幕近くの演出に見出すことができる。


4人の家族は、終盤にワーリャが二、三度歩き出す以外は窓枠の上から動かない。だがロパーヒンは始終歩き回り、過剰なアクションを行い、1円玉に足を滑らせて盛大にこけまくる。厚いコートを着ていることもあり、もちろん汗だくだ。ロパーヒンに次いでよく動くのはトロフィーモフで(とはいえ汗を垂らすほどには動かないが)、閉幕に近いシーンで、4人の家族の前に立ち、彼らが持つ窓枠を引きはがそうとする。その間の長台詞の間に、この戯曲で唯一「官能的」と呼びうる瞬間が訪れる。窓枠の中央に位置するラネーフスカヤのガウンのようなドレスの前がはだけ、美しい白い脚が膝上まで露わになるのだ。センシュアルだが、決してポルノグラフィックではない白い脚。

貴婦人らしく、ラネーフスカヤはすぐに、そしてさりげなく乱れた着衣を整え、何事もなかったかのように前を向いたまま座り続ける。だが今度は、終幕直前に、ロパーヒンがラネーフスカヤの横に立つ。そこで(リアリズム演劇の口調で)語られるのは、戯曲の第一幕冒頭にある(すなわち通常は芝居が始まってすぐに語られる)少年時代の思い出だ。

「忘れもしないが、おれがまだ十五ぐらいのガキだった頃、おれの死んだ親父が——親父はその頃、この村に小さな店を出していたんだが——おれの面をげんこで殴りつけて、鼻血を出したことがある。……その時ちょうど、どうしたわけだか二人でこの屋敷へやって来てね、おまけに親父は一杯きげんだったのさ。すると奥さんは、つい昨日のことのように覚えているが、まだ若くって、こう細っそりした人だったがね、そのおれを手洗いのところへ連れて行ってくれた。それが、ちょうどこの部屋——この子供部屋だったのさ。『泣くんじゃないよ、ちっちゃなお百姓さん』と言ってね……」(神西清訳)

観客の脳裏には、いましがた見たばかりのラネーフスカヤの白い脚とロパーヒンの汗がともども浮かぶことだろう。ロパーヒンは、話し始めた当初こそ適切な距離を保っているが、最後にはおそらく泣き始め、ラネーフスカヤの胸にほとんど顔を埋めんばかりになる(『泣くんじゃないよ、ちっちゃなお百姓さん』……)。「再構成」された戯曲はいまや、元の戯曲とは別のほろ苦い(いや、喜劇的な?)クライマックスを迎えている。具だくさんとはいえ均一な味に思えたスープから浮かび上がる、役者の生身の肉体とともに。


三浦は自著『おもしろければOKか?』において、観客には「舞台にいる人間の内側から発せられるもの、つまり『肉体』的現象を見たいという気持ちがあるのではないか」と自問し、「私はこのことを、正直な目線として捉えている。しかし、ではそうした『生(なま)』の『肉体』に頼っていいものかという気持ちもまた働く」と率直に述べている。さらに「『生の時間』というのは身体そのものに及ぶのである。しかし、『物語』はその『生の時間』を隠すときがある。正確に言うと、物語の空間に安住すると、観客の視線は身体に向かなくなる。それは物語によって消費される時間を過ごしている状態である。このとき、身体=生の時間は取りこぼされる」と続ける。

この見解が変わっていなければ、ラネーフスカヤの白い脚とロパーヒンの汗は、やはり異化効果をもたらすべく導入された小さな技巧のひとつに過ぎないのかもしれない。だがそれは、小さいとはいえ実に効果的な技巧であったと思う。あなたたちが観ているものは虚構に過ぎない。然り。でもそれは、まぎれもなく現実の生の時間でもあるのだ。

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地点『桜の園』と『ワーニャ伯父さん』は週替わりで、6月20日(金)~7月28日(月)まで北白川のアンダースローで上演される。