プロフィール

福永 信(ふくなが・しん)
1972年生まれ。
著書に、『アクロバット前夜』(2001/新装版『アクロバット前夜90°』2009)、『あっぷあっぷ』(2004/共著)『コップとコッペパンとペン』(2007)、『星座から見た地球』(2010)、『一一一一一』(2011)、『こんにちは美術』(2012/編著)、『三姉妹とその友達』(2013)、『星座と文学』(2014)。

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四谷アート・ステュディウム

2013年12月04日

長年住んでいるマンションの上の階からの水漏れがまたあった。「また」というのは、数年前からしばしばそういうことがあったのである。天井板に水滴が当たる。たまに、ポチャポチャと畳にまで落ちてくるのである。最初はびっくりした。今でもびっくりするのである。何度か管理会社の人や工事の人が来訪され、上の階の入居者の人にも協力してもらって水を流してあれこれ検討したり、天井に穴を開けてみたりしたが、おそらく風呂場が原因であるというのが最有力とされたものの、断定はできなかった。水漏れはその後もやむことはなく、ポタポタとくる。原因不明のままとうとう上の階の人は、引っ越すことになったのである。可哀そうである。しかしそれからはピタリと止んで水漏れはない。人間がいないのだからそれは当たり前であるといえばそうなのであるが、先日、ポタリときたのでおどろいたのである。

あわてて管理会社に電話して聞くと、先日から新しく入居者が入ったという。そういえば確かに気配を感じるのである。「なるほど、それで水漏れの謎は解けた」と、電話を切ろうとしたが、いや、待てよ。解決してない。そもそも水漏れしてしまうから旧入居者さんは出ていくことになったわけである。で、何の工事もその後していないのだから、新しい入居者さんが入ったら、ふたたび水が漏れるのは当然である。水は、この世界では上から下に落ちるのである。「遠慮して今回は落ちない」ということはない。管理会社氏は「水漏れ、ありますか。うーん。いや、私達があのあと確認しても、漏れる場所は見つけられなかったのですが」という。「でも、あったわけですけどね、さっき。ポタポタと、前と変わらず」と私。管理会社氏は困っているようである。いや、なんかこのトーク、おかしくないかしら?「確認した」と言われたが、それは事実だとしても、私には何も連絡なかったのである。僕にまず連絡くれる必要があるんじゃないですかね。何しろ、水漏れしてるかどうかは、我が家の天井で判断する事だからである。確認のプロセスというにはあまりにも単純なことでちょっと驚いたのであるが、さて、では、この予想外(?)の水漏れ再開をどのように解決するかという議論になったとき、管理会社氏はとんでもない提案を私の耳に吹き込んだのである。「フクナガさん、お隣に移ったらどうですか」。

隣室は、同じ間取りで、半年ほど前から空き部屋になっている。そこに移ったらどうかというのである。「費用は、ある程度、こちらで持たせてもらいますから」と管理会社氏は受話器の向こうで続ける。なるほど、私がお隣の501号室に移ればたしかに、水漏れに気づくことはないであろう。しかし、隣で毎晩ポタポタと水漏れがあるっていうのをすでに知っている私は、イヤな気持ちのままじゃないですか!(というか、建物的に大丈夫なんでしょうか……)「お隣の部屋への引っ越し」という管理会社氏の新提案に対して、私が(多少イヤ味な口調で)言ったのは以下のセリフである。「ウーム、隣へ移動というのは考えつかなかったユニークなアイデアですけど、その場合、僕の愛着ってものがあるんですが、それはどうなるんだろう。もう十数年、この部屋に住まわせてもらっていますが、ここが好きだっていう気持ちは、自然なものだと思いますが、それはどうしたらいいんだろうな」。管理会社は、住まいの専門家集団であるはずで、入居者の気持ちをほかの誰よりも共有できると思うのだが、住まいへの愛着に無頓着というのは、どういうことであろうか。たしかに、せっかく入居されたばかりの上の階の方に「出て行ってくれ」とは、もはや、言いにくいだろう。あるいは「おたくから水漏れがあるんですよ」とは今さら言えないかもしれない。面倒なのかもしれない。でも、がんばらないといけない。それが仕事の面白さでもあるし、難問を解決してこその仕事じゃないか。管理会社氏のこれからの仕事のヒントだって今回の問題に隠れているかもしれないんだぜ、だから、ガンバレ管理会社氏!今からでも遅くはないの気持ちを込めてその後もねちねちと電話を切らずに私はトークを続けたのである。その後、先方から電話も手紙もないのであるが、いちど、ポタポタポタっと来たけれども、今のところ水漏れは確認できないのである。上の入居者の方は、そのままいるようであるが、いったいどうしたのであろうか。ともかく無言のうちに管理会社氏はみごと挽回したのであるが、可哀そうなことにこのようにブログのネタになってしまったのである。

前置きはこれくらいにして、私は、今日、とてもいい文章を読んだ。文章を書きたいなという気持ちになるのは、いい文章にぶちあたったときが多いが、今日がそうだ。橋本聡さんの文章だ。「果敢な遭難(冒険)をやめさせることはできません」と題された、とても短い文章だが、そこには、豊かなアイデアと、真摯な怒りと、優しさが書き込まれている(それとなく)。近畿大学が東京で経営している四谷アート・ステュディウムが半年という時点で容赦なく閉校を決めた、そのことに抗議している。近畿大学によるその結論(閉校)に反対する在校生のウェブサイト「四谷アート・ステュディウム存続に向けて」に掲載されているものである。このサイトは、教育の専門家集団であるはずの近畿大学に届いてほしいという願いで作られている。と同時に、橋本さんの「果敢な遭難(冒険)をやめさせることはできません」は、四谷アート・ステュディウムにも近畿大学にも、まったく関係がなくても、読むことがやめられない文章になっている。人間がいつも警戒していなければならない相手に向けて書かれているからだ。

このサイトが始まったあと、呼応するように、四谷アート・ステュディウムで教育にたずさわった側から「芸術教育とは何か? ―四谷アート・ステュディウム閉校問題から考える―」が立ち上がった。ここでも、近畿大学に抗議しながらも人間が生き抜いていくたのしさそのものへとつなげていく言葉が、ユーモラスな響きをともなって、たくましく息づいている(たとえば中谷礼仁さんの文章)。それは、四谷アート・ステュディウムがそういう学校だということの証拠でもある。

 四谷アート・スュディウム存続に向けて

芸術教育とは何か?―四谷アート・ステュディウム閉校問題から考える―

四谷アート・ステュディウム