プロフィール

福永 信(ふくなが・しん)
1972年生まれ。
著書に、『アクロバット前夜』(2001/新装版『アクロバット前夜90°』2009)、『あっぷあっぷ』(2004/共著)『コップとコッペパンとペン』(2007)、『星座から見た地球』(2010)、『一一一一一』(2011)、『こんにちは美術』(2012/編著)、『三姉妹とその友達』(2013)、『星座と文学』(2014)、『小説の家』(2016/編著)。

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チェルフィッチュ『地面と床』公開リハーサル

2013年05月12日
チェルフィッチュ『地面と床』の公開リハーサルを今、見てきたところだ(京都芸術センター/5月11日)。すぐに帰ってきてパンをかじりながらこれを書いている。急いで書くことなんかちっともないのだろうが、ちょっと興奮しているのはたしかだ。

公開リハーサルとはどういうものか? 演出家の岡田利規らスタッフが客席の中段あたりに陣取るほかは、ふつうの本番と変わらない見た目である。見た目はふつうの本番と変わらないのだが中身は全然ちがっていて、当たり前だが公開リハーサルで演じられるのは作品のごく一部にすぎない。実際の公演では数分間で過ぎ去るような場面を繰り返し演じる、われわれはそれを客席で見る。繰り返すのは、演出家によってたびたびダメが出され、演じ直すように要請されるからだ。今日は約1時間半の時間を使って、わずか2場面ほどの稽古をしただけである。

お話の全貌はわからない。最後までわからないのだから、見ているこっちとしてはもやもやしないかと問われたら「する」と答えなければウソになる。が、リハーサルとはそもそもそういうものである。岡田利規が、「はい、ここでちょっととめましょうか」といって、役者にあれこれダメダシをするその言葉、そして、その岡田さんの言葉に反応した役者の身体の微妙な変化がこちらにも微妙に伝わってくる。演出家が問い、それに役者が具体的に応える、そのひとつひとつの繰り返しは、本番の舞台では決して見ることができない、生々しさがあって目を離せない。

『地面と床』は音楽劇と銘打ってある。『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』で音楽に過剰なまでにノリまくり、また現時点での最大の傑作『わたしたちは無傷な別人であるのか?』/『わたしたちは無傷な別人である』では大谷能生の音楽を最小限の音量にすることでかえって「爆音」を感じさせるチェルフィッチュは、これまでもずっと音楽とともにあった。今回はたびたび組んできた盟友サンガツと満を持してのコラボレーション、岡田が使っていた言葉でいえば、たがいが混ざり合うほどの作品を目指しているというのは、芸センでのこの公開リハーサルを見ても明らかではあるのだが、よりわかりやすかったのは、横浜での公開リハーサルである(この公開リハーサルは、先月の4月21日に横浜にあるKAAT神奈川芸術劇場でも行われた)。横浜での公開リハーサルではサンガツのメンバーが舞台にのって、役者が演技をする後ろでライブ演奏をしたのだった。つまり、サンガツもまた、そのつどダメダシを受けながら、その言葉に反応し、音を変化させていった。

今日の芸センではライブ演奏はなく(本番でもライブ演奏はないというが)、すでに録音された彼らの音楽が、おそらくは小泉篤宏氏自身の操作によって流されていた。リハーサルでは、まず最初に、後ろを向いた夫役の矢沢誠が、「いやな夢を見たよ」と語り出す(いつもながら、この矢沢誠の声の魅力は、なんだろう!)。それは日本と中国が戦争を始めたという夢だ。海辺の町に住んでいる自分ら夫婦の家から、中国の兵士を乗せた船が、最初は黒い点のようなものだったのだがどんどん近づいてくる。夫は危険を感じるが、妻と子を海とは反対側の部屋にかろうじて避難させることしかできない。夫が外へ出ると、中国の兵士と目が合う。銃を、かまえているのではなく両手で持つかっこうで横にしてこちらを見る兵士に、夫は何かいわなければと思うものの言葉がでない。というのは、言葉を口にしたら日本人であることがわかってしまうと危惧しているからだ。そのように自分の見た「いやな夢」のことを、少しずつ客席の方を向きながら語る夫のすぐ隣には、妻役の青柳いづみが椅子にすわっている。妻のもう一方の隣には、安藤真理が、ときおり床をこするように足を動かしながら、無言で、どこか不思議な、この夫妻と無関係でいるような、そうでもないようなフワフワした不気味さを感じさせながら、存在している(ところで登場人物にはすべて役名がついている)。夫が夢の内容をここまで具体的に語り出しているのは、「どんな夢を見たの」と問う妻に応じてである。この場面を、岡田利規は何度も繰り返し、演じ直させていた。観客であるわれわれならむしろ「うまい」と思えるような演技を、岡田利規は、できるだけ舞台の上から追い出そうとしているようだった。役者が感情の表現に没入してみずからの演技を「リアル」に丸く収めてしまうのではなく(「観客が食べるべき料理を役者が食べてしまうのではなく」とも岡田は語っていた)、「音を聞く」、「仙骨のあたりを意識する」といったようなことを、セリフをいう際に留意するよう矢沢誠に要求していた。「大腿骨!」ともいっていたが、演出の際に、骨関係の言葉を岡田が多く使っていたのは、今回の作品制作にあたって、役者と共に、初めて解剖学の講義を受けたからだという(『地面と床』のクレジットの「協力」の項目には「解剖学レクチャー」との記載がある)。それは、役者と共通の語彙を得るためということだが、それはともかく岡田の矢沢への演出はさらにしつこく続き、「床の模様でもいいし、青柳さんの足でもいいし、イスの脚でもいいから、何か具体的なものを見ながら言ってください」とか「むしろセリフを忘れちゃうくらいでいいから音を聞いてください」とか、セリフを口にするに際して抵抗となりそうな指示ばかりを出す。そのようにしてセリフの「意味」にどうしようもなくまといつく、「リアル」な感情を剥ぎ取り、払い落とそうとするのである。演出家の言葉に反応した役者の身体は、その高度な要求を実現する。しかし、それはほんのわずかのあいだのこと、次にやってみたらもとにもどってしまうほど、難しい。それほどセリフの「意味」にまといつく「リアル」な感情というやつは、シツコイ汚れのようなものなのだろう。成功と失敗の繰り返し。客席から見ていて、岡田、矢沢の二人にイラッとしないかと問われたら「する」と答えないとウソになるが(この場面だけでも10回は連続して繰り返していたのではないか)、しかしこのとき、われわれリハーサルを見に来た観客は、演劇の生まれる瞬間に自分らが立ち会っていることを意識したかもしれない。そう、われわれは「観客になるためのリハーサル」をしにここに来たのではなかった。役者と演出家が、新しいものを見つけようと試行錯誤している現場を、実験場を、今まさに目撃している、そのような瞬間を見るために今、ここにいるのだった。

5月22日にベルギーはブリュッセルで世界初演を迎える、仕上げを間近にひかえたこの『地面と床』は、2010年の『わたしたちは無傷な別人であるのか?』/『わたしたちは無傷な別人である』の出演メンバーと、まるかぶりだ。つまり最高の役者陣がそろっているといえるが、『わたしたち~』のときも矢沢誠が夫役で、そのときの妻役は、佐々木幸子だった。政権交代前夜、妻が一人でいるマンションの部屋へ(そういえば、この作品もまた、海の近くに住む夫婦の話だったような。このときはマンションという設定だったが)、悪魔のような雰囲気をまとう山縣太一の演じる怪人物が、入れないはずのオートロックの建物内に自在に入り込み、なぜか佐々木幸子演じる矢沢誠の奥さんに、やはり今回と同様、正社員とかではない、収入の不安定な、というか金のない貧困者としての自分を語り始める。観客席の方を向いて語る、その語りの地鳴りのような迫力は、いまだに忘れられないが、今回は、観客に対しては横を向く。やっとのことで借金を返済するような場面であり、その返済先である友人(だろうと思う)矢沢のいる場所とは反対の方向、カミテ側に、つまりは見当はずれの方向に、金の入っているという封筒を持ったその片手を、奇妙な感じにのばしているのだ。封筒を持ったその手は「はい、どうぞ!!」と今にもわたそうとしているしぐさに見えるが、それは誰の手にもいつまでも届かない。

山縣太一がそのとき正面に見つめているのは、おそらく自分の姿である。というのは、大きな鏡が、役者だけを映し出す装置として、今回、舞台のカミテ側にシモテを映し出すように存在しているからだ(ややこしいが、この向きのため客席は映りこまない)。舞台は、鏡、字幕のための横長ワイドスクリーン、観客席、この三方に囲まれており、残されたシモテのみで役者は出入りする。役者が消え現れるシモテ、われわれのいる観客席、役者の鏡像が映り込むカミテの大きな鏡、文字しか投影されないスクリーン(役者による日本語のセリフが翻訳され字幕として投影されるこのスクリーンは、今日の最初のリハーサルで「いやな夢を見た」夫が、銃を手にした中国人の兵士を前にして言葉を話すのをためらう、自分が話すのは日本語で、そうなると日本人であることがわかってしまい殺されるかもしれない、と語る場面にも対応しているだろう。スクリーンは上演中ずっと役者のセリフである日本語を翻訳し続けることで、日本語を母国語とする日本人が演じていることを、示し続けているといえるからだ)。シモテ/観客席/カミテの鏡/スクリーン。これら4つの存在に囲まれて初めて、舞台=床=地面が現れる、演劇が立ち現れる、これは、今のチェルフィッチュだからこそ思いついた、思いつくことのできた、舞台のかたちなのだろうと思う。今、チェルフィッチュという存在があるのがうれしいと思う。京都にチェルフィッチュが帰ってくるのをたのしみに待っていよう。

 
 
チェルフィッチュ『地面と床』公開リハーサル

作・演出 岡田利規

音楽 サンガツ

出演 山縣太一 矢沢誠 佐々木幸子 安藤真理 青柳いづみ

2013年5月11日(土)17時/京都芸術センター講堂/料金500円/定員100名

 
なお、『地面と床』は、KYOTO EXPERIMENT2013で日本初演となる(9月28日、29日)。場所は京都府民ホールアルティだ。12月にはKAAT神奈川芸術劇場でも公演がある。

どちらも先の話で待ち遠しいが、幸い、7月中旬から8月にかけて、チェルフィッチュのもう一つの傑作、佐々木幸子による一人芝居『女優の魂』の再演がある。これは、『地面と床』にもかなり関係のある主題を扱っていると思われるので(幽霊/国籍など。興味のある人は、2012年2月号の『美術手帖』に掲載の岡田利規の小説『女優の魂』を読んでみてほしい)、合わせて見ると(そして小説を読むと)、いつもより長くものを考えることができるかもしれない。