豊田市美術館でやっている
「ビルディング・ロマンス 現代譚(ばなし)を紡ぐ」(日曜まで)は
悪魔のしるしと
危口統之だけを見に来る気持ちで十分だ。
危口統之と悪魔のしるしは、傑作「
搬入プロジェクト」をメインに据えて展示している。これは「搬入しかない」作品だから、ほんとは「展示」できない。搬入し続けることはムリだからだ。
会期の初日に、「搬入プロジェクト」が実施された。僕はそれを見てないが、実施されたのは間違いないだろう。
その「実施された」は、「搬入プロジェクト」が終わった時点からずっと続く。ヘンな言い方だが、「搬入が終わった」は会期中ずっと続く。
だから、危口統之と悪魔のしるしは、会期中、展示を見に来た観客の場所を用意することができない。「終わった」しかそこにないからだ。僕のような会期も終わり近くになって、遅れてきた観客は、居場所のなさにそそくさと退散するか、ベンチ(《搬入物体その2「物体」》)にとりあえず腰掛けるしかない。
座ったところで、特に何もすることはない。
危口統之の資料や遺品などを埋め込んだ壁(《搬入物体その1「父子の壁」》)にあった蔵書などが読めるわけでもなし、「
わが父、ジャコメッティ」の映像が流れているが音は絞られてよく聞こえない。観客がここで座ったままやれることといえば、作者の言葉が朗読(《誰の声も俺は代弁しないから誰も俺の声を代弁するな》)されるのを聞くだけ…でも、そんなに観客はヒマじゃない。
そこで観客は《搬入物体その2「物体」》から立ち上がり、フリーペーパー(《搬入プロジェクトマニュアル》)に手を伸ばす。
フリーペーパーには「搬出プロジェクト」のやり方が書いてある。フリーペーパーの「読者」になった、その瞬間、そこから「搬入が終わった搬入プロジェクト」は、くすぶり出す。「やるかもしれない」やつが読者の中から何人か出てくるだろうからだ。自分もそうかもしれない。観客は歩き出す。
ただ単に次の展示を見に行くつもりで歩き出したのだと、自分ではそう思い込んでいるかもしれないが、「来るべき」搬入の「始まり」へ向かって歩いているのだ。「観客」はすでに「読者」に変貌してしまったが、未来を手にしている。このフリーペーパーを手にしているというのは、そういうことである。そのまま展覧会を出ても構わない。
(出口で待ち受ける
飴屋法水の作品は、そのタイトル「
神の左手、悪魔の右手」からわかるように、悪魔のしるしとの応答、「搬入プロジェクト」のネガのような場所作りになっている。「本当の搬出のやり方はこうだ!」と美術館を指南するような展示で、巨大な展示壁は壊され、剥がされ、「中身」がどこかへ行った車が宙吊りになって残り、展示ケースなどの備品があちこちに放置されている。その他作者が持ち込んだ物や文字、蜂の巣やら骨壷やら手書きの「謝辞 本展開催にあたり燻蒸され死んだコクゾウムシ」やらがまぎれ込み、会期の終わりを無言で待っている。「搬出」の途上を見た気持ちになる。もちろん会期中に搬出するのは不可能である、会期中ずっと搬入することが不可能なように。「搬入」された物が、「終わった」の証拠だとしたら、「搬出」を待っているこれらの物は、「予兆」の仮の姿だろう。来るべき搬出の時を、未来の時間を、静かに待ち伏せしているようでもある。フリーペーパーを持った読者が、今一度、「観客」にその姿を変え、会期が終わりに近づくにつれて活気付くこの場所を感じている。いや、「観客」に戻るのではなくて、「人間」として美術館の外の世界へ、「搬入」=「搬出」されるのかもしれない。この2人のタッグをまた見たい)