プロフィール

福永 信(ふくなが・しん)
1972年生まれ。
著書に、『アクロバット前夜』(2001/新装版『アクロバット前夜90°』2009)、『あっぷあっぷ』(2004/共著)『コップとコッペパンとペン』(2007)、『星座から見た地球』(2010)、『一一一一一』(2011)、『こんにちは美術』(2012/編著)、『三姉妹とその友達』(2013)、『星座と文学』(2014)、『小説の家』(2016/編著)。

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21年目のファーレ立川

2015年04月23日
パブリックアートというものがわからぬまま今年43になります。なぜか若いときは、「これはおじいさんが見るものだ」と思っていた。そして中年になった今は、「こんな単純で大味で硬そうなものは若い人の丈夫な眼球向き」と思っている。たまに、ほんとは野生の動物達のものなのではという思いが頭をよぎる。パブリックアートをどうやって見たらいいのかわからない、整理ができない、取りつく島もない、そんな感じでなんとなく視野の外へ放り出し無視している今日このごろ。ただ、例外がひとつだけあって、ファーレ立川だけは、何度も足を運んでる。なんでだろ。まぁタマタマなんだろう。親が住んでるのが多摩センターなんですがそこから立川へはモノレールが走っているんでわりかし行きやすい。上京の折に立ち寄ることがしばしばあるというわけだ。北川フラムの陣頭指揮のもと、鳴物入りでオープンし話題になっていたのをおぼえている。そういえばファーレ立川は「36か国92人のアーティストによる109点の作品」が展示されているというから、ちょっとした国際美術展のおもむきがある。もしかしたら、大地の芸術祭やら瀬戸内国際芸術祭など、昨今の巨大国際美術展の流行の原点といえるかも。たしかに国際美術展は、野外でのパブリックな展示作品が付き物だ。だとしたら、パブリックアートは、それら国際美術展に飲み込まれてしまったといえるのかしら。つまり、こういう問いが成り立つのではと思うのだがどうだろうか。パブリックアートは、もうとっくに、乗り越えられてしまった、時代遅れのものなのでは?

まぁ不況になって無料の観客相手のパブリックアートなんて、たしかにもう、過去のものなのかもしれない。でも、国際美術展がいくら立派な作品を展示したところで絶対かなわないのは、作品それぞれが通過した時間、積み重なって堆積した時間だ。ファーレ立川は、東京の西、JR立川駅や多摩モノレール立川北駅周辺一帯を中心に設置されて20年が過ぎた。先日、また歩いてみたのだが、「パブリックアートよ、謎すぎるぜ」と思う気持ちは変わらぬものの、年月が経過したことでどんどん面白くなってきていると、思いを新たにした。とくに今回、宮島達男の作品にダントツで目がいった。おなじみのデジタルカウント表示の作品なのだが電源が切れているのである。昔は、「0」を除いた数をどんどんカウントしていた。日中、日没後を問わず、勝手に刻まれる数字は単純でなかなか恰好良かった。それが、今ではカウントをやめ、電気が消えて、全部が「88888」となって祝福しているような状態になっている。

 
数年前からこのような状況だったが、デジタル数字のカウントをやめたことで、物体だけがドッシリとそこに取り残され、ど根性作品とでもいうべきものになっている。むしろ「前よりよくなったじゃないか」と言いたい。なぜなら本作は、前よりずっと大きな時間を数えはじめたと考えることができるだろうから。

 
20年も経過すれば人間いろんなことがある。まぁ人間でなくてもいろんなことがある。真っ赤なジャン=ピエール・レイノーの巨大植木鉢は現在、修理中だ。手前のロバート・ラウシェンバーグの自転車作品も最初は煌々と輝くものだったが今ではこれも電気がつかなくなっている。

 
山口啓介の作品の前に「放置自転車等禁止」、左に「道路上での危険な遊びは(スケート・ボード等)禁止」、右には「バイク駐車禁止」と写真では小さくて読めないが、そう書いてある。

 
こうなると、山口作品も「禁止」を何か言わなければならないように思えてくるがむろんそんな必要はない。というか、これは案内板の意味を持たせてあるのでほんとはもっと近くで見たい。作品がおとなしめなので、3つの「禁止」に肩身がせまそう、非常にかわいそうだ。

 
と思ってたら、夜になったらば、ビカッ!と白く発光したので、ビックリした。全然おとなしくなかった。3つの「禁止」もかすむほどだ。なんだかおっかないほどに明るくて、これならわざわざ禁止の表示でお茶を濁さなくても、放置自転車も、危険な遊びも、バイクも、あわてて逃げていくだろう。「ラウシェンバーグが光らないのならば俺が光らせる」という気迫もしみじみ感じた次第である。

年月の経過による変化は、野ざらしゆえ。それが、パブリックアートの良さであって、ほかでは得られない面白さがある。今回、そう強く思ったのである。岡﨑乾二郎作品は、その構造物のところどころがサビているが、植物はサビることがない。当たり前のことであるが、両者の「素材」のちがいを現在なら、強く感じることができる。雨は、サビをもたらすが、植物にとっては恵みの雨である。また、作品の形状、面積は変化しないが、内側の植物はどんどん大きくなる。毎年ちがうし、はみだしていく。昨年の夏はたとえばこんな感じで、その下の写真がついこないだ撮ったもの。スキマができて、向こう側が透けて見える。

 
作品のこういう変化は美術館ではなかなか経験することができない。作品の前で人は、晴れの日は、くつろぎ、夜はホームレスが体を休め、雨が降れば足早に通り過ぎる。人もまた、植物と同じく様々な変化を見せている。

ところで、今回初めて気づいた作品があった。それがこれ。

 
車止めなんだけど、「来ちゃダメ」と子供が主張しているように見える(それくらいの背丈だ)。夜に来たことで、照明があたって、面白い影ができて(最初に気付いたのは影の形だった)、足を止めることができたんだと思う。ほんとこれまでまったく気付かなかった。でもずっと20年、ここに立っていたわけだ。完成してすぐに気付かれるんじゃなくて、20年後ってのが、なんというか、やはり、パブリックアートはフシギだ(この車止めの作者がだれかなんて気にならないし)。そうそう、作者といえば、前回のブログの最後に載せた写真について、情報をもらいました。大田高充さんからすぐに連絡をいただいて、成安造形大の卒展での作品で、作者は村上祐介さん、場所は三井寺、時期は2001~2002年のどれか、とのことです。大田さんも、あの作品、見ていたとのこと。もしかしたらすれちがっていたのかもなぁ。