プロフィール

福永 信(ふくなが・しん)
1972年生まれ。
著書に、『アクロバット前夜』(2001/新装版『アクロバット前夜90°』2009)、『あっぷあっぷ』(2004/共著)『コップとコッペパンとペン』(2007)、『星座から見た地球』(2010)、『一一一一一』(2011)、『こんにちは美術』(2012/編著)、『三姉妹とその友達』(2013)、『星座と文学』(2014)、『小説の家』(2016/編著)。

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法貴信也、最高傑作個展

2015年11月12日
あっちから、こっちから、自撮棒がのびてきて、ひっかかりそうな今日この頃、京都は祇園、八坂神社のにぎやかでハデな、その界隈を歩いておりますと、ふと、あの黒くシックな、すてきな絵は、なんだろう、と、目にとまるのでございます。喧騒にもまれ、疲れた現代人の目には、こんな色を抑えたエコロジカルな現代的な絵がならんでいるのならば、ぜひ、のぞいていこうじゃあないか、と、法貴信也の個展とも知らずに、扉を、あけるにちがいないのでございます。そして、実際、あけてみますと、黒の絵、目に優しい単色の絵なんかあの1枚だけ、だまされた、と思う間もなく、まったく異なる色彩のうずに、たちまち巻きこまれてしまうのでございます。

 
引き返すのは残念ながら、もう遅いのでございます。どんどん、入っていくのでございます。自分の力で歩いている、そう見えるのでございますけれども、じつはそうではないのでございます。ほんとは絵に引っ張られているのでございます。ものすごい引力なのでございます。あるいは反対に、絵から、はじきとばされ、どしどし押されて、後ろへ退いていくのでございます。もしくは、絵から放出されている見えないエネルギーをかわすために、横へ、サッと移動するのでございます。止まっては動き、動いてはまた停止するそのくりかえしはまるで、法貴信也の振付によるダンスのような、複雑なステップを踏んでいるかのようでございます。

 
絵の鑑賞とは、落ち着いて、じっくりと、作品の前で立ち止まること、心臓とまばたき以外、すべての運動を停止することなのではないか、と、そう考える向きがあれば、おそらく法貴信也は、「それはちがうのでございます」と主張するにちがいないのでございます。もっとも、法貴さんは「ございます」という言い方はしないと思うのでございますけれども、法貴さんは、絵とは、運動していくこと、その場から次の場所へ、変化していくこと、そのように述べるに決まっているのでございます。絵を見る人間も同じこと、と言うに決まっているのでございます。つまり、動くのは心臓や目だけでなく、脳みそにもぜひ運動してもらわなければならない、と言うに決まっているのでございます。脳みその運動といっても、むろん脳トレとはぜんぜんちがうのでございます。なぜならそこには正解がないからでございます。法貴さんも、「正解」をわかっていないからでございます。「正解」のない世界に、踏み込んでいるからでございます。「正解」こそ、動きを止めるものだと、法貴さんは言うに決まっているのでございます。言うに決まっているということは、正直に申せば「言ってない」のであります。言ってないのでありますが、聞こえるのでございます。われわれのハートが、法貴さんの「言わざる内なる言葉」を受け止めるのでございます。一歩、この法貴信也の個展会場、eN artsに入り込んだら、われわれのそのハートは、そしてわれわれの歩みは、すべて、この作家の描く絵に関連付けられてしまうのでございます。それくらい、すごい引力なのでございます。絵と共に過ごす時間、濃密なそれが、うずになって、この場所で、静かに発生しているのでございます。

 
階段を下りて地下の展示室へ向かうという運動が、この法貴信也展のクライマックスなのでございます。階段の正面に、一枚の絵が、かかっているのでございます。つまり、その絵は、われわれが、階段を下りていくにしたがって、われわれの目線よりもずっと高くなってしまうのでございます。遠くへ行ってしまうように思えるのでございます。もし、自分が、その場で宙に浮くことができれば、自在に、その絵を見ることができるのでございましょう。ああ、見る、ということは、なんと「不自由な」ことなのでしょうか。
そんなことを、感じながら、ふわふわした足取りで地下の一室にたどりつくと、そこで、とうとう、われわれの運動は小休止するのでございます。真っ暗な中に白く浮かびあがる絵が、ぽっかりと、われわれを待ち受けているのでございます。ここは、文章で言えば、句点、つまり○のような、もっと言えば、改行のような場所であり、絵であって、最初の「黒」の絵を思い起こしながら、ここからまた、あらたな「段落」が始まる、そんな場所なのでございます。

 
法貴さんの今回の個展は、はっきり申しまして、一冊の画集に閉じ込めるのは無理でございまして、会場で味わうほかないのでございます。今月29日まででございます。さあ、行くのでございます。エンアーツに行くざますよ。今すぐ行くのでございます。あの絵から発生する不可思議な引力を感じ取りに行くのでございます。無料でございます。ただ、注意する必要があるのでございます。開いているのは金土日なのでございます。つまり月火水木はあいてないのでございます。しかしながら予約すれば月火水木でも見ることができるようでございます。相談してみるといいと思うのでございます。あるいは、もし今が、月火水木であったなら、会場写真を見て過ごすのも悪くはないかもしれないのでございます。それから、法貴さんが書いたステートメントを以下引用しておきますから、「ほほう、なかなかの文章家じゃないか」と感心するほかないこのステートメントを読(ちなみに、彼の書く文章は、書き手=画家ではないことが、強く意識されているのでございます。以下引用しますのは、会場に置かれているもの、ウェブで公開されているものとは若干異なる別バージョンなのでございまして、より「書き手」の法貴信也が出ているのではと推察されるのでございます)んでみるといいと思うのでございます。へんなところにカッコをはさんでしまい申し訳ないのでございます。ともあれ、うずうずしながら、時間を潰してみるといいと思うのでございます。その潰れた時間は、きっと、法貴信也の個展会場で、蘇生して、ふたたび動きだすにちがいありません。

 
(撮影:Tomas Svab 画像提供:eN arts)


 
汚れ

白い紙に鉛筆で線を描く。さらに気にいったものになおすため消しゴムを使うと生まれる3つのもの、それは紙(地)、線、そして汚れだ。
一度も間違えなければ、あるいはとても上手に消せれば、汚れは確かめられない。みえるのは線と地という対立だけだ。汚れとは、つまり線になれなかったなにか、または地に戻れなかったなにかであり、そしてまたそれは地と線を緩やかにつなぐ緩衝となる。

ニュートラルな白(地)にバイアスをかけようと、3年ほど前、拭き取った跡を絵に残してみた。これは、地/線の対立をさしあたり無効にするために汚れという緩衝を設けるという苦肉の策、方便だったのかも知れない。
そして、去年より制作に取り入れた「白の言語化」という考えは、線の修正や汚れのリタッチに使った白の跡を、意識的に描いたものに読みえていくことだった。白で線を修正してみても、それほどにきれいに消えるわけではないので、おのずとそこは汚れになる。また緩衝の汚れを打ち消すために乗せた白は、下の汚れが隠れ切ると、白の上の白という重複、ムダにみえた。

こうして汚れは徐々にバリエーションをもつようになり、おのずと作品には前より多くて複雑な手の跡が残るようになった。しかし白は元に戻すことであり続け、線はただ描くことであり続けた。と同時に、汚れは緩衝のままだった。


「無敵」を超える

描く、消す、そして消し(または描き)損ないである汚れに触発され、絵は進む。描くことと消すことを意識的と呼ぶなら、汚れは無意識と呼ばれるものに近い働きをしていたと思う。ただ、本当の無意識はこんな意図と意図のすきまや影をさししめすものではないだろう。それでもこういったものを「無意識」と呼ぶことが多いのは、それが「無敵」になるための便利な方便だからだろう。

この場合の「無敵」とは、たんに失敗をしない、または判断を棚上げできるという意味であって、完璧な腕力や能力があるということではない。たとえば、白い立方体の横に黒い立方体をひっつけておき、その間をグレイの帯でグルリと巻く。そうすると、もともとの白と黒の対立はなぜか安定したつながりにみえてくる。ほんの僅かであっても、グレイが挟まれば、対立は解消したかのようにみえる。本当ならぶつかるはずのものがつくるダイナミズムを感覚的に否定し、2つが手を取って行き交うようにみえる出口のない世界。これがつまり便利な「無敵」なのだ。

汚れが緩衝やバッファだと、絵が閉ざされる。そうならないようにするにはひとまずは線と白(地)と汚れがジャンケンのように三すくみとなることだ。それぞれの役割が明白にある上で、実際そこになにがあるのかによって結果が決まるもの。いま一番理想とする自分の絵のあり方はそれだ。線と汚れと白はひとめでそれとわかるにもかかわらず、それがなにであるかは、それぞれの絵ごとに、もっといえば場当たり的に決まっていくもの。

白と黒の立方体の間のグレイを異物と考えるということです。

法貴信也

 
 
『法貴信也 個展』eN arts(エン アーツ)
 2015年11月1日(日)〜11月29日(日)(会期中の金・土・日 開廊)12:00-18:00