先日来日したエトガル・ケレットさんとしゃべった。クレスト・ブックスの最新刊
『突然、ノックの音が』の刊行を記念してのイベントだ。英語の通訳が入るのだが、これがおもしろい。ケレットさんのおしゃべりがおもしろい、というのは当然だけども、通訳という存在が、とてもおもしろかったのだ。イベントの前の時間、新聞社の取材を終えたケレットさんに「こんにちは」と言って、今日はどうぞよろしく!と握手をしたんだけど、はじめて会ったのにそんな気がしないというか、懐かしいというか、そうか、事前に読んでいた彼の本の雰囲気に作者がそっくりなんだ、とわかって、「いやあ、ケレットさん、あなた、とてもこの本とそっくりな雰囲気がありますね。あなたのことはまだ全然知らないけれど、あなたのその姿を見ただけで、この本の作者だな、というのがわかりますよ。顔に出てる」と言った。もちろんぼくは堂々と日本語でしゃべったのだが、通訳者が、ケレットさんの隣についていた。ぼくが「いやあ、ケレットさん、あなた、とてもこの本とそっく」と、このへんまでしゃべったあたりで、通訳者は、さっそくケレットさんの耳もとでしゃべりだした。同時通訳というわけだが、ぼくがしゃべっている途中から、ぼくの日本語が通訳者によって英語に変わっていっているのが、なんというか、フシギだ。まだしゃべり終えてないのに、よくもまあ翻訳できるものだ、と感心するのである。ぼくがしゃべっている日本語を追い抜いてしまうんじゃないかと思ってしまうほどだ(もちろん、ぼくを追い抜くことはないのだが)。ぼくが、「ケレットさんよ、通訳っていうのは、どういうものなんですかね。まどろっこしくないの」と聞いてみると、ケレットさんは、通訳者という存在を、「バンドの仲間みたいなものなんだ」と言った。「ぼくの義理の兄弟に、けっこう有名なミュージシャンでバンドをやっているやつがいるんだけど、そいつから、『小説家なんて、信じられない。ミュージシャンの仲間達とツアーをやっていると、一人での作業なんてまったくどうかしていると思わざるを得ないよ!』と言われたのだが、そのときぼくはこう答えたんだ。『いや、ぼくも仲間とツアーしてるよ。通訳者という存在は、バンドの仲間と同じなんだ』ってね」、そう言って、通訳の池田さんと肩を組むしぐさをした。通訳者は、来日してから出会う仲間だけど、池田さんとはとても気があっているようだった。
この日のイベントは、通訳者がひとりで、ぼくのしゃべる日本語を、同時通訳で英語に、ケレットさんのしゃべる英語を、逐語訳で日本語に、というふうにすすめられた。ケレットさんの母語は、イスラエルのヘブライ語だが、エッセイなんかは英語で書く。だからしゃべるのは英語でも全然問題ないので英語の通訳というわけなのだ。逐語訳は、いったん、ケレットさんがしゃべり終わって、それを日本語に訳して、またケレットさんがしゃべって、それを日本語にして、英語、日本語、英語、日本語、というふうに、モチつきのように、ぺったんぺったん交互に、しゃべっていく。とはいえ、この池田さんという男は、同時通訳と変わらぬ素早さでケレットさんの英語をばしばし訳していた。ほとんど同化している感じだ。実際、ぼくは、イベント中のケレットさんがしゃべりながら右の眉を指で掻いたのと、通訳の池田さんが右の眉をほとんど同時に掻いたのを目撃して、2人のシンクロぶりにたまげて思わずイスからずり落ちそうになったほどだ。ケレットさんが、声に力を込めると、池田さんの日本語も力が入り、笑いを誘うようなところでは、笑いを誘うような感じでしゃべる。遠くイスラエルから、日本語の本を初めて出版する作家の発売日のイベント、カンヌ映画祭でカメラドールに輝くほどのその才気あふれるアーティストの来日に、会場もわりと緊張感があってもよさそうなものだが(イスラエル大使館の人も来ていて、SPもいたがこちらがニコッと笑うとニコッと返してくれた)、まるで、親戚のお兄ちゃんが、面白い話があってさ、と、晩ごはんができるまでのあいだ、話してくれているような、そんななごやかさがあった。ほんと、ケレットさんが日本語でしゃべってるんじゃないかと錯覚するような、そんな感じだったのだ。
同時通訳のおもしろさを最初に感じたのは、鴨川のほとりにある
ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川(長い)で、だった。去年の7月12日に、そこで滞在制作をするアーティスト達と、伊藤存、ぼく、司会に小崎哲哉というメンバーで、伝統をめぐってトークをする機会があった。みんなけっこうしゃべった。ぼくも、伝統は意識しようがないもので、後ろからぼくらを監視してるんじゃないかみたいなことを言ったし、伊藤存さんも、たぶんめずらしくストレートに、自分は絵という伝統的な表現の外側へ立つために刺繍という方法をとっている、と語った。小崎哲哉は、司会者として的確に発言をさばきながらも、ときには「もう1人司会を呼ばなければ」と思わせるほどじゃんじゃんしゃべった。むろん、ドイツの作家達も、すでに3か月の日本滞在を経て、言いたいことは山ほどあるぞ、という雰囲気だった。これら8名のわがままなしゃべりっぷりを、2名の同時通訳者がドイツ語を日本語に、日本語をドイツ語に、どんどん翻訳していく。ぼくら登壇者と、来てくれているお客さんは、耳にレシーバーをつけて、同時通訳を聞くという具合だ。このときしみじみと思ったのだが、同時通訳は、それ自体が、ライブな言語体験だ。いや、言語体験は、そもそもライブなもののはずだが、それをより際立たせてくれるような体験だ。日常の日本語の会話では聞くことのできない(意識することのない)、奇妙な抑揚がここにある。異なる2つの言語が、たがいを隔てる壁を越えようとしている格闘が、通訳、とくに同時通訳のライブの時間の中で、感じることができる。まるでアスリートの限界への挑戦を見るかのようだ。あるいは、それはまるで、スタッカートやアレグロ、フォルティッシモが、言葉にくっついているという感じかも。たしかに、蔵原さんの通訳は、豪快な寄り切りのようでもあり、見事な即興演奏のようでもあった。その「声」がドンと、耳を通過して、心に届くんだ。そのことにあまりにもぼくはびっくりしてイスから落ちたほどである。そして尻をさすりながら、イベントのあとでその蔵原さんに、いったい、どうやってあんなになってるんですかね、と、質問をしたのだが(とても言葉で商売をしている者とは思えぬザツな質問だったと後で後悔したが)、蔵原さんは誠実に答えてくれて、「しゃべっている途中から、通訳を開始するけど、予想できるものは、予想して、後回しにできるものはあとで追加、予想がまちがったらあとから修正していくんです。意識はしてないんだけど、編集みたいなものかもしれませんね」、と言う。しかも、「同時通訳は、相手の言っていることの全部を伝えることはできない。同時通訳には、そういう限界みたいなものがあると思うんです。でも、年に1回くらいは、100パーセント、ぴったりと相手の言ってること、言いたいことと重なることがあるんですよ」。それは、先日のケレットさんの通訳者、池田さんも言っていた。「憑依するというとおかしいですが、相手の言いたいことがわかることがありますよ」、と。ところで今、気づいたが、池田さんは池田尽さんと言ってつくしさんというお名前。蔵原さんは蔵原順子さんと言って、かずこさんというお読みする。もちろんそう読めるわけだからフシギでもなんでもないが、お名前がすでに「どう読まれるんですか」みたいなコミュニケーションのきっかけになっているところが、翻訳者、通訳者としての仕事とつながっているな、と思った次第である。
さて、ケレットさんの話に戻ると、ぼくが、「あなたのかもしだす雰囲気は、あなたの本にそっくりですねえ」と言ったそれに対する彼の答えは、「いやあ、どうも。そのことは、じつは前にも言われたことがあったんだよ。あるイベントに参加したとき、フランスの女の人が、イベントが終わってから近づいてきたんだ。あなたは自分の本にそっくりですねって言うんです。ぼくは、なんか褒められてるぞと思ってたんだけど、彼女が言うには、あなたみたいにとても小さな作品ばかり、と言うんだ(怒)。まあ、ぼくは小柄だから、短い作品ばかりを書いているんで、そんなことを言ったというわけだ(笑)」と、ケレットさんに寄り添いながら、池田さんはしゃべった。(いや、ケレットさんは、しゃべった)
えーと、せっかくなので、最後に同時通訳情報をひとつ。上に述べたゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川(長い)のイベントは、毎回、レジデンス作家と、日本側のゲスト2名、そして小崎哲哉司会による定期的なイベントで、今月、3月28日(土)にも、ある。この日の同時通訳も、蔵原さんが担当されるそうだ。もちろん登壇者が何を語るか、それも興味深いが、同時通訳が伝える言葉の魅力にも、ぜひ耳を傾けたい。
ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川
ドイツアートBar Creators@Kamogawa
座談会『PARASOPHIAクロスレビュー』
2015年3月28日(土)15時開演
入場無料/日独同時通訳付
登壇者 クリス・ビアル(美術作家)、ミヒャエル・ハンスマイヤー(建築家)、ヤン・クロップフライシュ(美術作家)、ゲジーネ・シュミット(劇作家・ドラマトゥルク)、港千尋(写真家・あいちトリエンナーレ2016芸術監督)、原久子(アートプロデューサー)、小崎哲哉(司会/構成)
この長い名前の場所の館長、マルクス・ヴェルンハルトさんのインタビューが、
ここに載ってます。マルクスさんは日本語が堪能でとてもきさくな男なので、ぜひみんな、話しかけてみよう。